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赤い月が雲の切れ間から微かに顔を出している。時刻は2時を少し回った頃、城内はしんと静まりかえっている。2階の開け放した窓からは生ぬるい風が入り込み、ベッドで眠る少女の眉は苦しげに潜められ、息は荒く、玉のような汗が額に浮かび、寝返りを打つと汗が伝った。 刻々と時が経つごとに赤い月はくっきりとその姿を浮かび上がらせ、月の明かりが天蓋付きベッドまで届き、少女は目を覚ました。何時もはキラキラと輝く黄金の瞳は、月の灯りを反映したかのように赤く、鈍く、怪しげに揺らめいた。のそりとベッドから起き上がり、首筋から鎖骨まで汗が一筋伝った、ぼんやりとした表情のままベッドから降り、扉へと向かう。不思議と足取りはしっかりしていた。 月明かりにのみ照らされた無人の城内は静かで、素足で歩くベアトリスのぺたぺたとした足音が妙に大きく聞こえた。と扉が開いて空の水差しを持った寝間着姿のメイドが、眠たげに廊下に出た。未だ距離のあるベアトリスの存在に気づかない彼女が一歩と足を進めると、ベアトリスの背後から影が現れ、急激な速度で近づいた。 その存在を目にしたメイドは途端に恐怖に顔が引きつり、声なき声を上げた、影が足を掴み引きずり、柔らかな皮膚を破り骨ごと砕く、血液が床、壁に飛び散った。影が床を撫でると、水差しを残してメイドは初めからそこに居なかったかのように消え失せた。ベアトリスは頬を紅潮させ、血液の飛び散る床に膝を付いて人差し指を滑らせて掬い取り、口を開き、舌にのせる。脳がしびれるような甘さに頬がゆるむ。無心で掬い取るも、限界があり肩を落とす、影が再びベアトリスの背後に渦巻いて、二股、三股に分かれ標的を探す、壁を這い、床を這い、人を砕いた。 門番はがくりと首を落とし、はっと目を覚ます。時計を見ると交代の時間はもう過ぎていた、おかしいとひとり首を捻り城へと向かって歩き出すと、獣か何かが木々を揺らす音が聞こえて、振り向いて目を見張った。一国の姫君が寝間着姿で立っている。 「姫様?何故このようなところへ」 声をかけるとふわりと微笑んで、素足のまま一歩一歩と近づいてきた、その姿にたじろぐ。 「姫様?」 もう一度声をかけるが、ベアトリスは微笑んだまま、ふわりと栗色の髪を靡かせて腹に飛び込んできた、不安に思った門番は膝を折って視線を合わせた。俯いていた彼女が顔を上げて息を呑む、何時もの黄金色が赤く鈍く輝いていた、口元に笑みを浮かべたまま抱き着いて、その首筋に噛みつく。うめき声を上げ、相手が姫だということも忘れ、その肩を掴んで引きはがそうとしたが剥がれず、途端、影が肩を貫いた。 「ぐはっ」 肩から後ろに回った影が大口を上げて、並んだ歯を腹に食い込ませ血が飛び散った。地面に倒れるより先に次なる影が襲い掛かり、幾つもの影が突き刺さり噛み砕く。肉片一つ残さずに影は全てを飲み込んだ。 「なくなっちゃった」 手にこびり付いた血液を舐めとって、寂し気に誰もいなくなった地面を見て呟く。彼女は獲物を求めて再び歩き出した。いくら部屋を開けても、探しても、誰もいないことにベアトリスは肩を落とした。こつりと足音がして顔を上げると紫のローブが揺れたのが見えた。 「随分と食い荒らしたな」 真っ白な服を真っ赤に汚す彼女を見て、それは顔を顰めた。彼の表情などどうでもいい。ただ目の前それが欲しくて喉が渇く、でも影は伸びずにただ目の前のそれを見つめた。それが近づいてきて、自らの腕に刃物を押し当てて鮮血が腕に伝う。ベアトリスの目の前に突き付けられて腕を取るが、上に引き上げられた。何故と見上げると初めて人の顔を見たような気がして、ベアトリスは不思議な気持ちになった。 「全部持っていくなよ」 言葉に頷くと腕が差し出され、子猫のように舐めとっていく。幼子とは思えない恍惚とした表情で一心に大人しく舐めると、ひとつ息を吐いて、糸が切れたかのようにぷつりと倒れ、男はその小さな身体を支えた。 「魔術師!?何が起こっているんだ?音で目が覚めたら、誰もいない」 大きな足音と声が聞こえて、幼い少女を抱きとめたまま振り向いた。アーサーが赤に染まった少女に気づく。 「姫様?何が、どうなって、まさか、怪我でも!?」 途端に顔から血の気が引き真っ青に染め、慌てて近づき怪我をした箇所を探す。だが外傷は何処にもない。少女を抱きとめている魔術師のことなど頭から飛び、ひとり慌てた声を出す。 「落ち着け、子供は問題ない」 「どういう事だ?」 彼女の腕から手を離し、魔術師に視線を向ける。月が明るいせいで魔術師のアメジストの瞳がよく見えた。 「問題は城内だ、この様子だと恐らく誰も生き残っていないだろう」 冷静な口調にアーサーは混乱する、何が起こったのか分からず、答えを求めて魔術師を見る。 「この子供は膨大な魔力持ちだ、それだけマナと密接に関係してくる」 だがマナは地上から消えた、目の前の名前ばかりの魔術師も薬を煎じることも、占うことも出来るが魔法は使えない。 「これはマナがないと生きていけない、今までは無意識にコントロールしていたらしいが、耐えられなくなった。そこで、身体は代替え品を求めた」 魔術師は一呼吸置いてから続きを話し始めた。 「人の血に流れる魔力だ。…このまま放置すれば被害は確実に増える。選べ、罪のない数々の命と、ここに眠る姫君か」 持ち歩いている短剣の柄を向けられる、装飾が施されたそれは、とても人を傷つける道具に見えず飾り物のように見えたが、月の光を浴びて鈍く光る刃が本物であることを示していた。 答えは簡単だった、何を迷うというのか。アーサーはその短剣を掴んで、魔術師へと押し戻した。 「彼女は殺さない、たとえ世界がそれで食い尽くされたとしても」 魔術師はアーサーの顔を見たが、感情はまるで読めなかった。彼は無言で短剣をしまう、そこへ唐突に足音がした。ふたりして視線を向けると、顔中涙や鼻水でぐしゃぐしゃにして、顔を歪めている少年がいた。 「庭師の息子か」 「へんな、へんな黒いものが!父さんをたべた!あわてて逃げたけど、っ、みんな、みんなも!黒いものに食べられてっ」 自分自身を抱きしめながらも、恐怖で体はカタカタと震え、歯はかみ合わずガチガチと音を鳴らした。アーサーは魔術師を見上げる。 「生き残りは居るのか」 一瞬でよく分からなかったが、魔術師の口角が上がったような気がした。 「私の知るところ、この3人以外は全滅だろう」 愕然と魔術師を見つめるアーサーの耳に、子供の嗚咽が聞こえてきた。
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