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3.おとぎ話・その2
二杯目のコーヒーを運んで来たウェイトレスが立ち去るタイミングを見計らって、加奈子は口を開いた。
「あたしも──おとぎ話をしてもいいかな」
「ああ」
彼はすっと表情を引き締めた。
「あたしの話も、わがままな王女がいた国の話よ。……その国に、一人の女の子が住んでいたの」
落ち着け……落ち着け。
「その子は、一羽の小鳥を飼ってた。雛の頃から育てて、もう4年くらいにはなったかな。ずっとずっと、可愛がってた」
加奈子は携帯をそっと取り出し、ディスプレイに写真を表示させた。ピーちゃん。青の入った黄色い羽は、今でも何物にも代えがたく綺麗だと思う。加奈子はそれをそっと彼の方に向けた。
「その子が一番恐れてたことは、この鳥が王女の目に留まることよ。あの王女は他人が大事にしているものを取って行く。小鳥を大事に飼っていることを知られれば、きっと取り上げられてしまう。その子は小さい頃から王女のことを知ってたから、予想はついたわ」
だから、誰にも秘密だった。
「友達が遊びに来る時には、小鳥を隠してた。見せるのは本当に親しい友達にだけ。……それでも、結局小鳥の存在はバレちゃったわけだけど」
小鳥の世話をするためには、餌などを買わなければならない。具合が悪くなれば獣医にも診せなければならないし、最近はつがいの相手も探していた。そういうところから小鳥がいることが判ったのだろうと、今は思う。
「王女はその子の小鳥を欲しがった。“大事なもの”だったから。『ちょっとだけ見せてよ』とか、しつこく言って来たけど、その子はずっと断ってたわ。もし渡したら、もう二度と戻って来ないのは判ってたから。
でもある日、王女はその子がいない隙を見計らって、こっそりその子の家に行ったの。お母さんは『娘は留守だから』って言ったみたいだけど、相手は王女だもん、結局押し切られちゃったの。しばらくして、王女はこっそり帰って行ったらしいわ。お母さんがお茶を入れている間に、もう王女はいなくなってた」
ぐっ、と加奈子は手を握り締めた。
「王女が来るなんて思わなかったから、鳥籠は出したままだったわ。あたしが帰った時は、空っぽの鳥籠が残ってるだけだった。お母さんから聞いて初めて、何があったか判ったのよ。目の前が真っ暗になった」
“その子”が“あたし”になっていることを、加奈子自身は気づいてはいないようだった。彼はあえて訂正することもなく、黙って聞いている。
「それでも、せめてあの子が真理江の手から逃げてくれていればと思ってた。飼われてた小鳥が逃げ出しても生きられないのは知ってる。それでも、運が良かったら誰かに拾われるかも知れないじゃない?
でもそれはかなわなかった。あたしがあの子を見つけたのがどこだかわかる? ……真理江の家のゴミ捨て場よ。あの子は、生ゴミと一緒に捨てられてたのよ!」
押し殺した声の向こうに、彼女の激情が見えた。
落ち着け、落ち着け、落ち着け! 忘れたの、あの子のことじゃもう泣かないって、あの日自分で決めたじゃないか!
「雨が降ってた。あたしは多分泣いてたと思う。あの子の亡骸を拾って、公園に埋めたの。あの子はずいぶん軽くなってた。多分、餌もろくにもらってなかったんだと思う。真理江のことだから、世話をすることなんて考えてなかったはずよ。すぐに面倒くさくなって、放っておかれたんだと思う」
……多分、それだけじゃない。彼は思った。真理江は取り上げたものを乱暴に扱う。それが壊れてしまうほどに。もしもそんな扱いを生き物が受けたとしたら、──加奈子が発見した小鳥の死骸はさぞ無残なものだったろう。
「あの子を埋めるための穴を掘っていた時、思いついたのよ。今回の計画を。……たかが小鳥一羽のことでって、人は言うかも知れない。でも、きっかけなんて結構そんなものじゃない? 世間で『たかが』って言われるようなことが、当人にとってはきっと何より重要なのよ、どんな事件でもね」
「……ああ、そうだな。きっと」
彼は静かに答えた。
「ねえ、一つ訊いていい?」
しばらく気が抜けたようになっていた加奈子が、出し抜けに訊いた。
「どうして、あなたには判ったの? 誰も事故だと信じて疑わなかったのに」
「見えたんだよ」
彼は答えた。
「あの時……佐野が倒れた時、クラス中の目が佐野の方に向いていた。でも、俺には見えたんだ。クラス中がパニクってた中のほんの一瞬、中村だけが──確かに薄く微笑んだのを」
「……そっか。……そうだったんだ」
よく覚えてはいない。でも、多分そうだったんだろう。自分の計画がパーフェクトなまでに上手く行った瞬間だったから。
「……一つ言っとくけど」
冷徹な眼が、また加奈子を見ていた。
「おまえが今回の計画を成功させられたのは、あくまでもおまえが佐野を小さい頃から知っていて、考え方や行動が手に取るように判っていたからだ。他の土地では──他の人間ではまずこうは上手く行かない。自覚しとけ、次はない。次にやったら、必ず捕まる」
「それって、忠告?」
「いや。……呪いだよ」
やけに不吉な単語を口にする。そして、ふっと息を吐きつつ言葉をつなげた。
「俺だって嫌なんだからな、逮捕した奴が昔のクラスメイトでした、なんてのは」
……そういえば。
あれは三年になって最初の進路相談があった時だ。クラスのみんなでこの先の進路をどうするか何となく話している場に、珍しく彼も加わっていた。もっとも話の輪には積極的に加わらず、主にみんなのしゃべってることを聞いていただけだったけど。
──なあ、武田はどうすんだよ、進路?
男子の一人が何気なく訊いた。彼はきっぱりと言った。
──俺は警察官になる。もう願書も取り寄せてるし。
彼がちゃんと答えたことと、かなり具体的に将来を決めていることに、その場にいた者は少なからず驚いたものだ。どうやらその時の決心は、微塵も揺らいではいないようだった。自分が警察官になると信じて疑っていない。
彼は、全てが見えているのかも知れない。自分の未来も、加奈子の心も。そう思えた。
「……警察官になる人が、人を呪ってもいいの?」
だから、あえて茶化した。
「生憎、呪詛は罪にはならないんだ。科学的に証明されてない手段は、法律の外にあるんだよ」
「そう。……さすがに未来の刑事さんね、よく知ってるんだ」
加奈子は立ち上がった。
もう、彼とこんな風に話すことは二度とないだろう。そう思ったから。
「……さよなら、──武田くん」
初めて彼の名前を呼んだ。
「ああ、……元気でな」
まるで明日また会おうというように、二人は別れの挨拶を交わした。そのまま出口へ向かいかけた加奈子は、ふと立ち止まって振り返った。
「あたしも一つだけ言っておくけど」
「ん?」
「あたしがあの時笑ったのは多分本気だったと思う。……でもさ、あの時泣いたのも──多分、本気だった」
「……ああ。判ってる」
彼は答えた。加奈子は微笑んで、今度こそ振り返らずに店を出た。取り返しなんかつかないけれど、自分の抱えた殺意も悲しみも、全てを受け止めて生きて行く。その足取りには迷いがなかった。
──まるで憑き物でも落ちたように。
☆
立ち去る加奈子を窓から見送って、武田春樹は正面に視線を移した。さっきまで加奈子が座っていた場所。そこに、いつの間にかおぼろげな人の姿があった。
佐野真理江。
だが、その顔色も表情も、生者のそれではない。顔色はどす黒く染まり、白目をむき、口はだらしなく開いている。それは彼女の死顔そのものだった。
「そんなに恨めしそうににらんでんじゃねえよ」
事も無げに春樹は言い、冷めかけた二杯目のコーヒーを飲んだ。
「つっても、今のあんたが判ってるかどうかも怪しいけど。今のあんたは妄念の塊みたいなもんだからな。ただ人を羨み、他人の大事なものを欲しがる念だけが残って、自分を殺した中村にくっついてる。哀れなもんだ」
死者は答えない。いや、答えられないのだと春樹には判っている。死者が残すものはただの“念”だ。人が死ぬ間際に遺した強烈な“念”が空間に染み付き、生前のかたちを取って出て来る。それが俗に言う“幽霊”だ。もちろん、そんなものは普通の人間には見えない。たまたま波長があってしまった者と……最初から“視える”者以外には。
──春樹。おまえは“視る”だけならあたし以上かも知れないねえ。
小さい頃から、そう言われて育った。遊びの延長線上として、修行もさせられた。
だが、人に見えないものが視える能力というのは、いいことばかりではない。むしろ、知りたくもない真実ばかり知ることの方が多い。それで傷ついたことだってあるし、怖がられたことも、気味悪がられたことも、恨まれたことだってある。自然、春樹は対処法を考えざるを得なかった。
今回春樹が視たのは、中村加奈子のあの一瞬の微笑みと、彼女に取り憑いている佐野真理江の妄念だけだ。それだけで春樹には実際に何が起こっていたのか、大体のことは判った。引かれないように加奈子の真実を引き出し、さらに取り憑いている真理江の妄念を引き剥がす。それが春樹の目的だった。
「ま、俺に哀れまれても迷惑かも知れねえがな。だが、あれだけ王女のように君臨していたというのに、あんたの死を悲しむ者はクラスには誰もいない。あんたの死に本気で泣いたのは、多分手にかけた中村くらいだ。そして、当のあんたはそんな無様な姿をさらしている。これが哀れでなくて何だっつーんだ?」
すっと、テーブル越しに真理江に向かって手を差し伸べる。
「さっきも言ったが、科学的に証明されてないものは法律の外にある。……だけど、何も手がないかと言ったらそうじゃない。俺とか、俺のばあちゃんみたいな存在もいる。俺は“視る”こと以外はばあちゃん程じゃないけど、あんた一人“送る”ことくらい出来るぜ」
真理江の姿が淡い光に包まれて行った。と同時に、真理江の姿が薄らいで行く。ゆらゆらと陽炎のように、存在が揺れている。真理江が低くうなり声を上げた。
「怒るなよ。どうせ中村の存在を奪い取ったとしても、サイズの合わない服を着るようなもんだ。あんたの性格なら、いずれ他がうらやましくなって転々と他の人間に憑き続ける。……それが未来永劫続くだけだぜ。あんたにも、憑かれた人間にとっても不幸だ」
それをただ見ていられるような人間ではない。だからこそ、彼は自分の力の使い道を考えた。警察官を志したのは彼なりの結論だった。死者の無念と生者の悪意が交錯する場所にいられる職業。
「だから、俺が終わらせてやるよ」
これは自分にしか出来ないから。
ついに、真理江の姿は揺らぎの中に消えた。武田春樹はほっと息をつき、そして頭を振った。こんなところでめげていてはダメだ。この程度の悪意も悲劇も世の中にはいくらでもあるし、自分はそれと付き合って行く覚悟を決めたのだ。
春樹は席を立ち、店を出た。加奈子と反対の方向へ歩いて行く。自分がさっき放った呪いが、成就しないように願いながら。
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