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酒のせい
冷房の効いた休憩室に入ってきた汗だくの上司の姿を見るなり、晴香はサッと弁当箱の蓋をしめて、その身を縮こまらせる。
そんな彼女の様子を対面の席で見ていた友梨は、残りのサンドイッチをコーヒー牛乳で流し込む。手を合わせ、ご馳走様でしたと言うなり席を立ち、晴香の肩をポンポンと優しくたたく。
友梨は、ゴミを捨てに行くついでですという雰囲気を出しながら、買ったばかりの缶コーヒーを美味そうに飲む有村真吾の後ろ姿――彼女の視線は、すっかり淋しくなっている真吾の頭部に向けられている――に声をかけた。
「そう言えば部長。昨日の打ち上げで、目ん玉飛び出るような事をこの子に言ってましたよ」
「えっ、マジで? 全然覚えてないわ……俺どんな事言ってた」
「最初は『新人の教育も大変だろうが、自分の仕事が疎かになったらイカン』とか言ってたのに、気がついたら『能はないけど乳はある』とか『食べた栄養は全部乳にいってるんじゃないか』とか本当に驚きましたよー!」
慎吾は赤くなった後に、青くなる。
ポケットから取り出したシワくちゃのハンカチで首回りを拭いていた。
「極めつけには『減るもんじゃないし、一回くらい揉ませろ』って言ってる時の距離が本当に近くて、みんなで引き離したりして大変だったんですからね?」
友梨は丸めたゴミ袋をわしづかみにして、真吾に見せつけるようにニギニギしてみせる。
「マジでか!? 全く覚えてないわ。やっぱり外で日本酒は呑んじゃダメだなこりゃ。ハハハ……」
俺まだ仕事残ってるからゆっくりしてくれよ、とか何とかゴニョゴニョ。缶コーヒーを一気飲みした彼は、ゴホゴホとむせながら早歩きで休憩室を後にした。
友梨は大きなため息をつくと、ゴミを捨てて元いた席に戻り、扉の向こう側に目を向けながらボリュームを落として口を開く。
「マジであのハゲなんなの? 晴香に『ごめん』の一言もないとか信じられない。来月にあるアイツの送別会、こうなったらバックれてやろうかしら」
「もう集金は済んでるし、私は取り敢えず参加しようかな。あと、ハゲって……目上の人にそれはちょっと言いすぎじゃ」
「いい? こっちはセクハラさ・れ・た側なの。もっとアンタは強気に出てもいい位なんだから、高校の時みたいにビンタの一発もかましてやりなさいよ」
まあ冗談だけどね、と付け足して友梨は笑う。
愛想笑いを浮かべた晴香は、弁当箱を開けてレンコンと人参のきんぴらをつまむ。プチトマトに箸がのびた時に、彼女の頭を友梨がなでた。
「溜め込んじゃダメだからね? ……そうだ! 美味しいケーキバイキングのお店見つけたから、今度の休みにお茶しに行こうよっ」
食いぎみの友梨に同意を迫られた晴香は、最後の一口となった玄米をよく噛みながら、口元を手で隠しつつコクコクと頷いた。
午後の業務も無事に終えて、カワサキと描かれた緑色のバイク――爪痕のステッカーが貼ってあったり、焼けたような色合いが綺麗なマフラーがついている――で帰宅する友梨を見送ると、晴香はようやく帰路につく。電車の中でも、道を歩いていても、晴香はいつもより猫背になっていた。
時折、大きなため息もついている。
アパートの扉を開け、鞄をテーブルに置き、喉の渇きを癒すべく冷蔵庫の扉をあけた。
「そうだった……帰りがてら買い物に行かなきゃいけないんだった」
使い途中の調味料しか入ってない冷蔵庫から耐熱ポットを取り出して、煮出し冷やしておいた番茶をグッと飲む。
空になったグラスを頬に当てて、彼女はまたため息をついた。
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