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クリスマスか…
誰が恋人と過ごす夜なんて決めたのか…
藤宮ノボルは薄暗いバーのカウンターでウィスキーの入ったグラスを持ちながらそんなことを考えた。
香港に来て3年がたとうとしていた。
この街の人の多さやごみごみした感じにはすでになれ、人々の生き生きとした様子を見るのがノボルは好きだった。
俺がすでに忘れた情熱って奴がこの街にはあるよな。
ぐいっとグラスに少し残っているウィスキーを煽るとふとノボルはカウンターの右端に座る女に目がいった。
黒髪のショートヘアで小さな真珠のピアスをつけている美しい女だった。
女は気だるそうに小さなグラスを傾けている。
いい女だ。
俺の好みの。
ノボルは35歳になるが結婚など考えたこともなかった。子供なんてごめんだった。
女と一緒に暮らすなんて面倒極まりない。
好きなときに会って、抱くだけで十分だと考えていた。
「Excuse me. Can I get you a drink?」
ノボルは女の横に座りながらそう聞いた。中国語も広東語も話せないのでノボルは英語を使って香港で暮らしていた。
女は鋭い視線をノボルに向けた後、値踏みするように見つめた。そしてため息をついた。
「いいわよ」
女から返ってきたきれいな日本語に少し驚いた顔を見せると女は妖艶に微笑んだ。
「暇だから、付き合ってあげるわ。」
「あんた、名前何ていうんだ?」
ノボルはベッドに腰掛けて煙草をふかしながらそう聞いた。体の腰回りにタオルを巻いた姿で髪はまだ濡れていた。
ベッドの中には気だるそうに毛布に包まる女がいた。女は煙草の臭いに顔をしかめながら視線だけをノボルに向けた。
「名前なんていらないでしょ?私もあなたも一夜だけの関係だし」
女はそう答えながら立ち上がった。美しい肢体があらわになる。女はその身にタオルも纏うこともなく、バスルームに歩いていった。
バーで飲み明かして、そのまま近くのホテルに駆け込んだ。
お互い欲望のまま抱き合った。
女は日本人ではない。日本語は完璧なものだが時たま発音が奇妙だったり、その仕草がどうみても日本人ではなかった。
まあ、どうでもいいか。
そんなこと。
ノボルは吸い掛けの煙草を灰皿に押し付けてもみ消した。
シャワーを浴びたのにまだ体が女を欲していた。
いい女だ。
ノボルはベッドにごろんと体を預けた。
ベッドの横にある時計が26日になったことを示していた。
26日、通常であれば会社は休みなのだが、ノボルはホテルから自宅に帰る気がせず、事務所に来ていた。
事務所は真っ暗で従業員がクリスマス休暇をとっているのでがらんとしていた。
ノボルは照明を最小限に点け、パソコンの電源を入れ、椅子に座った。
するとまもなく携帯電話が鳴った。
「武田か?おう、南国のクリスマスはどうだ?」
電話をかけてきたのは部下の武田タカオで中国人スタッフのメイリンとシンガポールに出張中だった。
「ああ?今日帰る?皆休暇とってるぞ。お前もゆっくりしてきたらどうだ?有給?ああ、そうだな。わかった」
部下のタカオは軟派な外見の割にはまじめに仕事をする男だった。日本で取引先の会社に勤めていたが私情のもつれでやめて香港に来ていた。一人の女のためにキャリアをすべて捨てた男だ。興味があって雇った。
「俺には考えられんがな」
誰ともなくそうつぶやくとノボルは煙草に火をつけた。
女のためか。
ノボルはふとそう考えて、朝まで一緒にいた女の顔を思い出した。
携帯番号でも聞いておくんだった。
気の強い女だった。
電話をしてももう一度ノボルと会いその腕に抱かれるとは思えないが、ノボルはもう一度抱きたいと思った。
そんな自分に苦笑してノボルは起動したパソコンに目を落とした。
会社は休みでもやることはたくさんあった。
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