終 私の初恋

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終 私の初恋

「帝都の大怪盗、銀座の宝石店に現る! ——いやはや、帝都は相変わらず話題に事欠かない街だなあ」  窓際のデスクにふんぞり返った知成が、手元の新聞をめくりながら大仰な声をあげた。明るい色の背広を着こなす美しい身姿は、西洋風の内装で整えられた事務所にしっくりと馴染んでいる。  その向かいには臙脂色のソファに腰かけたなつめの姿がある。しっかりと糊付けされた黒い背広を着た彼女は、その様子を呆れた目で眺めつつコーヒイの注がれたカップを傾けていた。  ここは東京にある日本橋。  百貨店や書店で賑わう中央通りの裏手に、ひっそりと佇む喫茶店の、その2階。  “鬼塚探偵事務所”と銘打たれたこの場所こそが、なつめの新しい居場所である。  象牙色で彩られたアール・デコ様式の外装に包まれた事務所は、艶やかに塗られた茶色や臙脂色などの暖色で整えられた、絢爛ながらも心の落ち着く風合いをしている。硝子のはめ込まれたテーブルとふかふかのソファ、壁際にある移動式のバーカウンターを見ると、洒落た客室のようにも見えるがれっきとした事務所である。  少し趣味の偏った本棚と、ロクに使いもしないのに大きな顔をしているデスクだけが、かろうじて探偵事務所らしさを醸し出していた。  知成の探偵としての名声はめざましい……わけではない。いや、ある意味ではめざましかった。主にその存在の迷惑さ加減についてだが。  それは一重に彼の性格によるものであったが、彼が事件に関わることを当然ながら警察は良しとはしない。能力やプライドの話ではなく単純に知成の(げん)が腹ただしいのである。相手に強く嫌われるほどに、知成は上機嫌になる。実に性格の悪いことだ。  おかげで探偵事務所はいつでも閑古鳥が鳴いていた。  華族の御曹司というだけあって生活には困らないが、やることがないのは性に合わないと、なつめは温くなったコーヒイの水面を眺める。相変わらず男装の板についた自分の姿に苦笑した。 「そういえば」  ふと、なつめは思い出したように口に出した。 「どうして探偵だったんです?」  唐突な問いに、知成は小首を傾げた。 「だから、どうして知成さんは探偵になりたかったのかな、と」  なつめの言葉を聞いた知成は不満げに「キミ、覚えていないのかい?」顔を顰めた。 「何をです?」 「……私はねえ、探偵じゃなくて“名探偵”になりたかったのだよ」 「え?」  そう言って口を尖らせる表情は子どもっぽさが目出つ。彼の言葉をゆっくりと噛むようにして聞いていたなつめは、「あっ!」と声をあげた。 「キミが好きだと言うから……」  珍しく耳まで赤く染めて呟く知成の様子に、なつめはいたたまれない気持ちになる。 乱暴にカップをソーサーに戻し、「買い物に行ってきます!」と立ち上がった。知成が何かを言う前に駆け足で事務所を飛び出す。そして飛び出してから、自分が財布も何も持ってきていない事に気が付いた。それでも、今事務所に戻る勇気はない。  このまましばらく歩こうとなつめが肩の力を抜いた時、肩に固い感触がぶつかった。 「キミ、財布も持たずに何処にいくつもり?」 「……知成さん」  慌てて追いかけてきたのだろう知成が差し出した財布を受け取り懐に仕舞う。それからどちらからという事もなく踏み出した足に引っ張られるように、ぎこちなく隣を歩いた。  ふと並んだ手の先が触れる。指先を絡めとられて顔に熱が灯った。見上げれば白い肌の彼も自分と同じ表情をしている事がわかって視線を戻す。  がやがやと喧騒の絶えぬ街の中。ぴかりぴかりと眩しき東京の光の下を。  リンゴの様な顔の大人が2人、並んで歩いていた。
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