第伍話 キミに愛していると言いたい

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「……ない」  葵は何事かを譫言のように繰り返していた。イブキが様子を伺っていると、不意に彼女の顔が持ち上げられて空いた手でイブキの襟首を掴んだ。 「イブキは死んでないわ!」  爆ぜるように叫ぶ女に驚いて、イブキは思わず抑えていた手を離してしまう。たたらを踏むイブキに縋りつこうとする葵を、慌てて長牧と森下が引きはがしにかかった。 「死んでないわ……ここにいるもの……」  もはや知成の演説も、聴衆の視線も、葵にには届いていなかった。彼女は真っ赤に充血した目をイブキに向けて、自分の信じる世界に閉じこもってしまっている。 「そうでしょう? イブキ」  警察に取り押さえられながらも、あくまで声色だけは甘く囁いてくる葵の言葉に、イブキは思わず返事をしそうになる。知成に看破され、聴衆の面前で秘密を晒されてもイブキの意識は未だ“イブキ”のままであったのだ。 「そ……」  「そうです」と口にしそうなイブキを止めたのは知成だった。後ろから小さくイブキの袖を引く彼の気配を感じた途端、イブキは言葉を詰まらせた。眠っていたなつめの部分が胸の奥を叩くのだ。  イブキ——なつめはしっかりと葵の目を見据え、「いいえ」と否定する。 「私はなつめ、五百蔵なつめ。イブキではありません」  その言葉が落ちると同時に、くしゃりと葵の白いかんばせが歪んだ。丸められた紙屑みたいに崩れた顔から、大粒の涙が零れて言葉にならない嗚咽が響き始める。その肩にそっと手を添える晴彦が沈痛な面持ちでなつめの事を見た。 「ごめんなさい、お父様」  弱々しい少女のような声に晴彦は首を振る。 「長い間、苦しい思いをさせた」  静かに頭を下げる父の姿に、なつめはじわりと視界が滲んでいくのを感じる。その震える頼りない肩を抱いてくれたのは、甘い香りのする流行り色の背広の腕だ。しばしの間そのぬくもりを享受しようと、なつめはゆっくりと目を閉じる。  後に五百蔵邸少女殺害事件と新聞を飾る事件が今解決した。    ■ ■ ■  コンコン、と扉をノックする音で瞼を上げた。  目の前に広がるのは無数の手紙で出来た紙とインクの匂いのする海だ。胸いっぱいに愛しい匂いを吸い込んで、ほぅと溜息を1つ零す。  あの後警察に連行されて行った葵は、全て自分の犯行だと自供したらしい。不意に錯乱状態に陥るために取り調べ自体は難航しているようだが、近所の農家の納屋にあった農薬の瓶から葵の指紋が出たこともあって、この事件の犯人が彼女であるという事実は揺るがないだろう。葵がこの家に帰ってくる事は無いし、なつめと顔を合わせることも2度とない。  その事に安堵する自分と、少しもの悲しく思う自分がいて、なつめは小さく苦笑を漏らした。  葵は最後まで、それこそ気が狂うまでなつめをなつめだとは認めなかった。それが何故なのか、なつめはよく知っていた。葵のイブキを見る目が、頬に触れる手が孕む熱は、親が子に向ける熱量ではなかった。  なつめには今でも理解も納得もしがたいことだが、彼女は自分で産んだ子どもに恋をしていたのだ。  再びノックの音がしてはっとする。慌てて返事をして扉を開けると、苦笑を浮かべた知成が「や」と片手を挙げる。 「入っても?」 「……ええ」  小首を傾げる彼に道を譲れば、ゆったりとした足取りで部屋の中へ入り、不意にぴたりと足を止めた。 「可愛いことをするね」 「かっ」  知成が緩んだ視線で指したのはライティングデスクの上に広がる手紙の海だ。顔を真っ赤にしたなつめが、知成の視界を遮ろうと手を伸ばす。しかし、その動きも優しく頬を撫でられては否応なしに硬直してしまう。 「もう男装の必要はないのにその恰好なのかい?」  残念そうに言う知成に、気まずげになつめは視線を逸らした。  なつめは相変わらず男物の着物を着ていた。ご丁寧に今まで通り胴回りや肩回りに詰め物までして、今まで通りの五百蔵イブキを再現している。 「……女物を着ると逆に落ち着かないんです。女装、しているみたいで」 「言い得て妙だ。残念だね、似合っていたのに」  仰々しく声をあげる知成になつめはむっとする。 「碌に顔も見ていないのにわかるもんですか」 「わかるとも、私だぞ?」  形の整った目がきゅうっと弧を描く。一見すればなんでもわかる。それが誇張ではなく事実なのだと、なつめはすでに思い知らされていた。 「いつから気づいていたんです? その、私が女だと」  少しの沈黙の後に、なつめは予てから気になっていた事を訊いてみることにした。 「……剣道場であった時から、と言ったら怒るかい?」  眉を下げて言う知成に怒りほど激しいものは湧かなかったものの、憮然としながら「何で言ってくれなかったんです?」と疑問をぶつけた。不機嫌そうな顔をしたなつめの手を恭しく取った知成は、ゆっくりと手を引き寄せた。 「私はねえ、人でなしなんだよぅ」  短い黒髪を頬で撫でながら知成は嘆くような声を出す。 「およそ普通でない私の目には、人の機敏が色で見える。焦り、葛藤、絶望、怒り……人の感情の大きく揺れる時の色が、たまらなく好きなんだ」  身体を離した知成の顔が困惑するなつめの顔を覗き込む。 「私を想って苦悩するキミの色は最高に綺麗だった」  笑顔で言いきってから、急に不安気な顔をする。捨てられた仔犬のような眼差しで尋ねてくる。 「幻滅したかい?」 「どう視えますか?」  なつめは薄く微笑んで訊き返した。しばらく見つめあってから、知成は「あんしんした」と小さく息を吐いた。 「生まれる場所も、時代も選ぶことなんてできない。生まれてくる形だって私たちにはどうする事もできないでしょう」  なつめはそっと知成の腕に触れる。すぐ鼻先に彼の肩口がある。ふわりと香るのはやはりどこか甘い匂いだ。 「貴方が、どんな形であれ自分の力を好きになれたのならそれは良いことだと思います。生まれ持った形を否定されるのは、それが自分自身であってもつらい事だと思うから」  不意にふわりと体が浮いた。柔らかな感触を背中に感じて、そこがベッドの上だと理解する。目の前では天井を背にした知成が嬉しそうな、それでいて泣き出しそうな不思議な表情で見下ろしていた。 「人でなしでもいいのかい?」 「構いません」  さらりと零れ落ちて来る彼の髪の毛を掬いとる。 「……私がキミの苦悩する様を嬉々として見ていたのは本当の事だけど、キミの事をとても好きだっていうのも本当の事だよ」  言い訳のような台詞に、なつめは小さく笑った。 「結婚したくて電車に飛び乗るくらいに?」 「そうだよ」 「田舎町の男女でもいいんですか?」 「うん」  短い返事が耳元で聞こえた。熱いくらいの彼の温度に包まれた。頬のすぐそばに綺麗な細い髪が落ちて来る。 「私はたしかに化物で人でなしだけど」  泣きそうな知成の甘い声が鼓膜を焼いた。 「赦されるなら……キミに愛していると言いたい」  ゆっくりとなつめの手が背に回る。背骨をなぞり、形を確かめるようにしっかりと目の前の身体を抱きしめた。 「私も」  なつめの心が叫ぶ。 「私もずっとそう言いたかった」
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