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序 わたしのはつこい
心臓が宙に浮いているみたいだ。
桜並木の下を亀のようにゆっくりと歩きながらそんな事を考えた知成は、思わず自分らしくないなと苦笑した。
きらきらと降り注ぐのは暖かな春の日差し。
そこに柔らかな影を作りながら舞い降りて来るのは、ふわふわとした桜の花びら。彼らを乗せて髪の隙間を通り抜けていく風が心地いい。
何より手のひらの中に収まるぬくもりが、知成の心を躍らせた。
知成は1人の少女と手をつないで歩いていた。浅黄色の浴衣を赤い帯で結ったこの子は、自分の3つ年下で7歳になったばかりだという。ひらひらとした平児帯の裾が金魚の尻尾のようで愛らしかった。
「トモちゃん、トモちゃん」
甘い声が知成を呼ぶ。普段愛称で呼ばれる事などない知成は、彼女のこの呼称が嬉しくて少し恥ずかしい。
少女は泣いた後の赤みの引かない目元に喜色を滲ませ、楽しそうに繋いだ手を揺らす。長い黒髪には先程まで木に引っ掛かっていた赤いリボンが、出来の悪い蝶を象って留まっていた。
「トモちゃん、ありがとう」
何度目かになる熱のこもった言葉に気恥ずかしくなる。
失くしたリボンを見つけてあげた、たったそれだけ。
知成にとっては造作もないことだったし、たいして時間がかかった訳でも、労を要した訳でもない。そう何度も言っているのに「ありがとう、ありがとうねぇ」と彼女は何度も舌ったらずな言葉を重ねる事をやめなかった。
「なつの兄ちゃんがくれたの、おリボン」
「……そう」
なんと答えたら良いか分からず、素っ気ない相槌しか打つことができない。知成は会話する事自体が不馴れで忌避する所がある愛想のない子どもだった。
「でも、どうしてわかったの?」
思わず足を止めた。振り返れば真っ直ぐな黒い瞳がじっと見上げている。好意と尊敬が見てとれる視線を受け止めきれずに、知成はそっと目を反らした。
彼女の疑問は尤もだった。
知成は泣いている彼女を一見しただけで状況を把握し、風で飛ばされて少し離れたところにある林の木に引っ掛かったリボンの下まで迷わずにやって来たのだから。
知成にはその理由を上手く説明できる自信がなかった。
はくり、と金魚のように声無く口を動かして目を泳がせる。言葉を選ぶことも誤魔化すこともできない。そんな自分が大嫌いだった。
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