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2、伝わらないのは言葉にしないから
【残夜】ざん・や
夜の気配がまだ残る、明け方のこと。
***
身の上話をしよう。
前提条件としては、僕はいつだって自分を不幸だと思ったことはなかった。
「気持ち良いことが好き」。
そんな話をすると相手は引くか反応に困るか、まぁとにかくプラスな印象は受けない。
だけど考えてみれば、人間の三大欲求とは、食欲、睡眠欲、そして性欲。
「眠いから寝る」や、「お腹が空いたから食べる」と同じように、「セックスしたくなったからする」のだって悪いことじゃないだろう。
だから僕は人間が人生の三分の一を睡眠に費やすようにセックスをするし、違う食事を摂るように相手も変える。
いつだったか、一番長い付き合いのオジ様にそう言ったら、彼は「おまえらしいな」と言って僕の頭を撫でたのを、たまに思い出す。
さて、気持ち良いことをひたすらに追い求めている僕が、男とのセックスーーーそれも「抱かれる側」に目覚めたのは、ある意味必然だった。
別に恋愛対象が男なわけじゃなかったけど、愛はなくても体は繋げられる。その点では、余計な気遣いが要らない分男との方が楽だった。
ハマりだしたのは高校生の頃から。
もちろん、相手はちゃんと選んだ。断じて僕は被虐趣味があるわけではなく、ただ快楽を追求していただけなのだから。
僕のセックスに対するスタンスを理解して、その上で「面白い」と受け入れてくれる人。気づけば、そんな人ばっかりと知り合いになっていた。
主に、独身貴族を極めたお金のあるオジ様達だ。それも社会的地位の高いエリート。
自分の体に価値を見出したわけじゃないが、どうゆうこっちゃ、と言う前になんか集まったのだ。
セックスで手に入れた、謎すぎる謎の人脈。
実は本職の方でたまに活用させてもらっている。
高校を卒業した後、僕が選択した進路は、母が経営していた古書店を引き継ぐことだった。
昔から変わることなく、本が好きだった。
自分がいないのに一番近い世界を、自由に駆け巡る楽しさ。
言葉で歴史の垣根を超える感動。
無数の文字を追っていたら、いつのまにか時間は早足で過ぎ去る。
どうやら僕には、鑑定の素質があったようで、幼い頃から母にビシバシ鍛えられた。そのおかげで、実力と知識は折り紙つきだ。
母子家庭で兄と僕を育ててくれた母には、僕のことで大変な迷惑をかけたと思う。だけど兄共々、過保護すぎるんじゃないか、と呆れるレベルで僕を甘やかしてくれた。
さっぱりとした性格と明け透けな物言いに、何度救われたかはわからない。
そして突然の事故で母が亡くなった19歳の春、僕は古書店「残夜堂」を継いだ。
昼から夕方まで残夜堂を開けて、その後夜の街にセックスをしにいく。
大体明け方まで起きていて、日の出を見た後一人で眠る。
たまにハイスペックなオジ様達が、ローテーションでちょっかいをかけに店に来たり、心配性で職業弁護士な兄から電話が掛かったりするけど、僕の日常はこんな感じだ。
緩やかなテンポで過ぎ去る毎日。
その折々、僕はふと心の空白を思い出す。
何かが足りないな、という気がしていた。
まるで心の中にぽっかりと穴があいてるみたいな、そんな喪失感。
そこには何を埋めるべきなのか。僕はわからなかった。
セックスのとき、深く絶頂して気を失う一瞬前に正体を掴みかけ、でもいつも指の間を擦り抜けてしまう。
翌朝起きた時にはそんな一瞬なんて忘れていて、スタートラインが逆戻り。
「足りない」ことが不幸だとか、そんな風に思ったことはないけれど。
やはり消化不良感は付きまとうもので、グヂグヂした傷跡みたいなそれと、気持ち悪く共存していた。
そこを埋めるのは「愛」だの「恋」だの、そういう高尚なものなのかもしれない。
だとしても、僕にはわからないし探す気にもなれなくて。
無駄だと切り捨てたわけじゃなく、単純に「知らなかった」からだ。
答え合わせの出来ない感情というものは非常に厄介で、恋愛より先に直接的な快感を覚えてしまった身としては、今更知りたいだのどの口が叩くのだろう。
家族愛は、十分に貰った。
僕を好ましく思い、信頼して頼り頼られる知り合いがいる。
これ以上の何の愛を望むというのか。
愛に種類があるなんて興味がない。
だから、僕は要らないんだ。
なんて、そう考えていたはずだったんだけどな。
***
「あの、・・・。」
「へ?」
遠慮がちな声を掛けられて、思わず気の抜けた返事が口から漏れた。
駆け巡っていた文字上の世界から引き摺り出され、極限まで抑えていた聴覚が復活する。
見慣れた古書店の中に、一人の青年が立っていた。
しなやかな筋肉を自然に使いこなした、長身の男性。短めな黒髪は爽やかそうで、だけど凛とした切れ目は少し近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
パーカーにジーパンという簡単すぎる格好と、背後に背負ったデイバッグから見て、近くの大学の学生だろうか。
というか、それ以前に。
(・・・えっ、超好みなんだけど。)
顔が良い。
自分の中の雌が目覚めかけるが、仕事中仕事中。邪な思いを胸に本を触るなど、言語道断だ。
青年の手に二冊の本があるのを見て、僕は慌てて立ち上がった。本を読み始めると周りが見えなくなるのは、僕の悪い癖だ。
届かなかった目線に、また体の奥がきゅんっと震える。
「す、みません!会計ですね?そちらの二冊でよろしいでしょうか?」
「・・・はあ。」
曖昧な返事をする彼から、いつもより丁寧さを心がけて本を受け取る。そうでもして自分の立場を明確に意識しないと、抱いて欲しい願望に支配されそうだ。
(あー・・・。気怠げな男子大学生・・・。遠慮なく奥までガツガツ突かれてイキまくりたい・・・。泣いて許して、って言っても止めてくれないまま抱き潰されたい・・・。ヤリたい盛りの本能、快楽に歪ませたいあの顔・・・。ああ犯されたい。)
普段僕を抱くオジ様たちは、年月だけはそれなりに過ごしているので抱くのが上手だ。負担もなく、優しく丁寧に、だけど僕がちゃんと気持ちよくなれるように。そんな風なセックスをする。
だから、本能に任せるまま獣のように交わる、なんてセックスはしたことがない。少し興味があった程度だけど、この青年なら抱かれたい。いやむしろ抱いてください。
脳内でメチャクチャに抱かれる妄想をしつつも、表面は愛想笑いを浮かべレジがわりのタブレットを叩いていた。雑念を振り払おうと必死なので、画面をいつもより強くタップする。たまに爪が当たる音がした。
いっそこのまま、「今夜どう?」なんて誘ってしまいたいが、客に手を出すのは流石にまずい。
数字を打つ間の沈黙に甘えて、どうしたものかと内心頭をひねった。
タブレットに表示された、細い黒色の数字。考えるより先に言葉が勝手に飛び出る。
「二冊で1500円になります。袋に入れましょうか?」
「・・・あ、えっと、はい。」
「少々お待ちください。」
慣れというのは恐ろしいもので、頭の中はぐるぐる考えていてもマニュアルどおりの動きをなぞる。
袋に入れている動作を、目の前の青年に見下ろされていた。僕に欲情しているならいいのにな、とは思うけれど、目を見る勇気はなかった。
「こちら商品になります。どうぞ。」
入れ終わった本を青年に渡す。触れた指先は暑くて、それが気温のせいではなく僕のせいならいいのに、とか自惚れた。
無言で代金を差し出す腕。ちらっと見えたやや色黒は、しっかりと筋肉がついていた。
例えば、無理矢理犯されたら手首には痣ができそうだな、と。
その赤黒い痣さえ、のちに愛しむのに。
「ありがとうございました。」
心にもなく、接客を終えた。
踵を返した青年の背中が、どうか別れを惜しんでくれないかと心で語りかける。
店中でガンガン犯されてもいいほど、僕は惜しんでいるというのにな。伝えるつもりのない願望が、着地点を探して彷徨った。
この夏の出会い。
僕の「空っぽ」を埋めるヒントを、このまま取り零すのは酷く残念だ。
と、思っていたら。
くるっ、と青年が振り返った。
テレパシーか何かで通じたようなタイミング。取り繕う間も無く、僕は変な顔をしていたと思う。
そんな僕に対し青年は、ふっ、と優しげに笑った。
「・・・また来ます。」
まるで何もかも見透かしたような。
言葉もなく伝わったような。
欲しかったことを言うだけ言い捨てて、青年は店から去っていった。
「・・・・・。」
思考停止して、しばらく。
青年の気配が完全に消えた一人きりの店内で、僕はズルズルと座り込んだ。
ぺたりと触った床は少し埃っぽい。また掃除しなきゃな、とぼんやり思う。
「・・・いや、・・・今のは反則でしょ・・・。」
思い出したように、今更顔が熱かった。
噛みしめるごとく唸った文句は、当然誰にも届かず空間に落ちるだけだ。
凛とした、冷たささえ感じる瞳。
触れた熱い指先。
そして最後に綻んだ優しい笑み。
青年の置き土産である記憶が、脳裏にこびりついて離れない。
どうして、そんな彼を忘れることが出来るのだろう。
(忘れられないわ・・・。これ、また会うまでずっと考え続けるやつだわ・・・。)
狡い。
青年にとっては、ただ店員に対して愛想を浮かべただけだろう。男の僕に下心を持って接する奴なんて、早々いるはずないのだ。
そんな一瞬の愛想が、僕を捕らえて離さない。
まるで、桃味のソーダだ。
甘く痺れて、溺れるピンク色。
ああ、喉が渇いたな。
僕は彼に、名前も知らない青年に恋をした?
いや違うな。これは恋じゃない。ただ、また会いたい、と。そんな願いを持っただけだ。
「うあ"ー、何これ・・・。・・・知らない・・・。」
床の上で、体を抱き締めるようにうずくまった。
なんだか無性に恥ずかしい。店に一人だけでよかった。
新たな出会いの清々しさなんて、微塵もない。ただただ、ドロっとした何かに絡め取られたみたいだ。
鮮烈な印象になかなか立ち上がれなくて。
結局知り合いが顔を見せるまで、「彼」の余韻に打ちひしがれていた。
そんな僕の、夏の日常の最中。
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