1、言葉にしなくては伝わらない

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1、言葉にしなくては伝わらない

例えばそう、夜明けの海。 風が止んで世界から音が消える、凪の時間。 朝に夜が溶け込んだ、ちょうど境界上の色をした空。 「彼」はその、深青の静謐によく似ていたと思う。 *** (……面白いものを発見した。) 駅から自宅まで至る道の途中、ちょうど中間地点あたり。 最短ルートからは少し遠回りになる坂道の中腹にて俺は立ち止まり、感心の息を吐いていた。 気まぐれに歩いたそこで見つけたのは、小さな古書店だった。 店先には「残夜堂」と細い文字で書かれた看板のみ置いてあり、深い色の木のガラス戸は片側だけが全開に開いている。 決して新しくはないその店は、されど俺の興味を引くには十分だ。 季節は茹だるような暑さの、夏の初め。 少し涼みたいという気持ち半分、文学部の学生としての好奇心半分で、俺はその店に足を踏み入れた。 足を踏み入れた瞬間、ひやり、と冷えた空気に頬を撫でられ、肌が粟立つのを感じた。 外とは一転、まるで別世界に迷い込んだように薄暗く、冷たい空間だ。 軽く腕を摩る。妙に自分の鼓動がうるさく感じた。 (太宰、志賀、江戸川、・・・。ああ、最近の作家のもあるな・・・。・・・英語の小説に・・・これはフランス語?の専門書も置いてある・・・。) 視線の動きだけで、古書店の中を観察していく。壁一面の本棚と、店内の中央にも背中合わせの背の高い本棚2つ。 そしてその全てに、上から下までびっしりと本が詰まっていた。 文庫からハードカバーまで、大きさは様々。並び方を見ても、手当たり次第に突っ込んでいったかのように規則性は感じない。 だが、埃っぽさは一切なく、薄暗さにさえ慣れてしまえば、紙の香りがして落ち着く空間だ。 ほっ、と息を吐いて取り敢えずは右側の壁に向かう。本がたくさんあれば、端からタイトルを追ってしまうのが俺の癖だった。 本というのは、いつまで見ていても飽きない。途中知っているタイトルをなぞりながら、さらに奥へと入っていく。 もう拒絶じみた冷たさは感じられない。 最初のあれは試練だったとでも言うように、綺麗さっぱり消えた冷酷。今はただ、外の暑さを癒す涼しさで肌に触れていた。 本棚の中腹までなぞった時。 ふと人の気配を感じて、顔を上げる。 ーーーそして、俺はその時初めて「彼」の存在を認識したのだった。 店の最奥に、ひっそりと置かれた机。その横の椅子に座っている青年がいた。 彼の手には一冊の本があり、銀フレームの眼鏡越しに視線を落としている。 薄暗さの中で際立つほど色白の肌と、襟足が長い亜麻色の髪。店員であることを示すように、黒いエプロンを着ていた。 ペラリと細い指先が本のページをめくる。文字を追って軽く上下する目は、俺にまだ気づいていないようだった。 引き結ばれた口元は真剣、そして表情は硬い。集中力がありありと伝わってくるので、邪魔をしては悪いと息を潜める。 気配を消そうとしても、俺はどうしても目を逸らせなかった。 ドクン、ドクン。鼓動が体の奥から響いて息が詰まるように苦しい。 先程まで本のことを考えていたのに、今は目の前の青年で脳が染まっている。彼の存在は、花の蜜ような無意識の誘惑だと感じた。 端的に言えば、俺はその青年に見惚れていたのだ。 *** 俺の恋愛対象は、男だった。 所謂、同性愛者である。 気づいた幼少期の頃は軽く絶望したが、そんな自分と付き合って早二十年、ほどほどに受け入れる事を覚えていた。 バイならまだ誤魔化しようがあったと思うが、俺の場合は単純に女には勃たない。 中学の頃、初めて付き合った彼女には本当に申し訳ないことをしたと思う。 幸い、彼女は寛大だった。 事情を死にそうな顔で説明した俺に対し、「りょーかい、りょーかい。それは仕方ないね。じゃあ、カモフラージュの為に付き合いは継続ってことでいいかな?」と爽やかに笑いかけてくれたのだ。 今思っても、彼女の心の広さは異常だ。 結局、同じ高校に進んだ為「お付き合い」は五年近くにも及び、良き友として相談にも乗ってくれた。地元を離れた現在でも定期的に連絡を取り合っている。 恋人を作ろうという気にはなれなかった。 生きていれば欲は溜まるもので、それを発散する為にセフレはいたわけではあるが。 なんとなく、好きとか恋とか、そんな感情とは疎遠だったのだ。 恋人が面倒だと思っていたわけではない。 ただ、いなかったのだ。 信頼して、弱みを見せられる人物。甘やかしたいと、そう心から思える人物。 つまり俺は、恋に落ちたことがなかった。 体だけを求めるセックスは、吐き出す瞬間は気持ち良くて。その後の虚しさも一括りに、次第に諦めていった。 本気で好きになられたことや、愛してくれと縋り付かれたこともある。 だけど答えは、いつも拒絶。「さよなら」を言うことに、なんの躊躇いもなかった。 「おまえは冷たいな。」と、唯一の親友は苦笑した。 「誰のものにもならない、そんなあなたが好きです。」と泣きながら笑っていた後輩もいた。 彼女のフリをした友人は、「無理に変わる必要なんてないよ。」と甘やかした。 もとより、自分の周辺の大切な人以外には興味関心が湧かない性格だ。 酷い付き合いをする俺に愛想を尽かさなかった彼ら彼女の、そんな優しさにずっと寄りかかっていた。 高校を卒業したのを境に、俺は地元から離れ、始めたのは一人暮らし。 そうやって切り離して、何かが変わるとでも思っていたのだろうか。結局、俺は俺のまま何も捨てれず生きているけれども。 だから、完全に諦めようと思っていたんだ。 俺はきっと、誰も愛せないと。 それでもいいと、そうやって。 *** 極力静かに移動していたとはいえ、店内一周しても気づかないというのは相当ではないか。 俺に目もくれず本をめくり続ける店員を前にして、さてどうしようかと軽く悩む。無理矢理意識を逸らしていたというのに、また彼のことを考えていた。 結果的に、俺の手の中には二冊の本があった。以前から気になっていた本を発掘したのはいいが、会計をするには目の前の彼の集中を切らなくてはいけない。 斜め上から見下ろすと、青年の顔立ちがよくわかる。 伏せ気味な睫毛が瞳を隠す繊細さと、通った鼻筋、引き結ばれた桜色の唇。 綺麗に整頓された洗練の空気は、彼の真面目そうな銀フレームの眼鏡とよく似合っている。 改めてじっくりと鑑賞していると、だんだんと変な気分になってきた。 例えば、滑らかな線を描く垂れ気味の瞳。俺だけしか映さないときの色は、どれほど綺麗になるのか。 例えば、真一文字のままの桜色の唇。だらしなく涎を垂らしたとき、嬌声はどれほど甘さを含むのか。 例えば、俺好みの顔。トロリと蕩けさせて征服したら、どんな風に縋ってくれるのか。 はしたなく絡みつく彼のナカを「浅ましいな」と嘲笑う余裕もなく、自分勝手に腰を振る快楽を想像しそうになる。 自分でも、そんな衝動に驚いていた。 独占欲、征服欲、加虐心、そして暴走しそうな本能。 自分とは無縁だったはずの、それら。 気を抜けば、安いゲイビよろしく無理矢理犯してしまいそうだ。 なんて、そんなことを考えていた俺は、次の瞬間目を見張った。 ふわり、と蕾が花開くように。 青年が口元を綻ばせのだ。 何かユーモアな表現があったのかもしれない。文字を追う目はそのままに、機嫌良さげな笑い方。 硬質な印象を一瞬で和らげ、落ち着いた青色に似た空気に、暖色が軽く混じったみたいだ。 ゾクッ、と背筋が震えた。 真面目そうな彼の、和やかな一面。見えなかった表情。 まだ、俺の知らない「彼」がいる。 その秘密裏な未だ見ぬ内面を、酷く魅力的に感じた。 知りたい。もっと深く。 そして、誰にも見せたことのない深さまで、達したまま溺れたい。 膨れ上がる黒めいた願望は、しかし現実に引っ張ってくるには、あまりに理想的すぎる。 今すぐ犯せー!と叫ぶ内心を、涼しい顔でぶん殴り、俺は青年に声を掛けた。 「あの、・・・。」 「へ?」 唐突に切られた集中力に、青年は間の抜けた声で俺を見上げた。 ぽかん、とした瞳には俺の顔が映る。 ああ、やっとこっちを見た。なんだかわからないが、そんなことが嬉しい。 青年は少しだけ動きを止めていたが、状況を把握したのか慌てて立ち上がった。身長は、俺より少しだけ低い。 「す、みません!会計ですね?そちらの二冊でよろしいでしょうか?」 早口で言う彼の耳が、認識できるほど赤い。 バタバタと本を片付ける瞳は忙しなく、あちこちに彷徨わせていた。 はあ、と気の無い返事をして本を差し出す。受け取るときの、彼の手つきは必要以上に丁寧な気がした。 ニコ、と無害そうな笑みを浮かべた彼は、そばに置いてあったタブレットに指を走らせる。商品の裏を確認し、金額を打ち込んで計算しているようだ。 タンッ、タンッ。リズミカルに叩く音に混じり、時折カツンと爪の当たるのも聞こえた。 なぜそんな小さな音を聞き漏らさないか、といえば静寂が色濃いからで。 視線を落として瞬きをするたびに震える睫毛を、ただずっと見ていた。 「二冊で1500円になります。袋に入れましょうか?」 流れるように彼が言い、ワンテンポ遅れて俺に向けられている、と気づく。そんなこともわからない程に、未だ青年に見惚れているのだ。 「・・・あ、えっと、はい。」 「少々お待ちください。」 こちらの心情など御構い無しの彼は、涼しい顔で袋をテーブルの下から取り出した。 それと財布から出した1500円の交換。明確な別れの区切りが近づいて、だけど引き延ばすためにはどうすべきなのか分からない。 「こちら商品になります。どうぞ。」 差し出された袋を、何も言わずに受け取る。一瞬触れた指先は柔らかくて、その白さに胸が高鳴った。 反対に1500円をピッタリ渡せば、もう終わり。「ありがとうございました。」の言葉に押されるように、俺は踵を返す。 そんな別れを惜しんでくれないか、と。 浅ましくも、俺は彼に期待をしていた。 もちろんそんな妄想あるはずもなく、青年はただ見送るだけだ。 当然だ。俺は数いる客の一人でしかない。そもそも、男に抱かれる抵抗のない人間が早々転がっているはずがないのだ。 けどまあ、たまにはいいか、なんて。 珍しい気分に駆られて俺は振り返った。 きょとん、とした顔の青年は存外幼く見えて少し笑う。おそらく年上だというのに、可愛い、だなんて感想を抱いた。 「・・・また来ます。」 そう言うだけ言って、反応を見ずにまた歩き出す。 彼は、今の俺の言葉をどう思っただろう。 おかしな客だと笑うか、気にせず忘れるか、或いはそれ以外の感情を持ってくれるだろうか。 少しずつ、少しずつでもいい。 如何なる形であっても、彼の心に残りたいと思う。 これが恋かと問われれば、俺は違うと首を振る。だが、酷く似ている気がした。 一歩店の外に出れば、現実に戻ったように暑さがまとわりついてきた。 涼しさの残滓が汗に流れて、しかし気分だけは妙に清々しい。夏の空はまだ青く、なんだかラムネを思い出した。 しゅわしゅわと泡に溶けるように、足取りが軽く感じる。 次にこの店、残夜堂に来たとき、青年はどんな顔をするのだろう。 出来れば俺を覚えていてくれたら嬉しいのだが。 そんな想像は全く俺らしくもなく、キャラじゃないな、とまた笑った。 進行方向は坂の上。 遠く響く蝉の鳴き声を背景に、俺は家へと歩き出した。
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