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あっ、冷たい。
思わず捩った身体の下に、氷のように冷えた指が滑り込む。力を込めて暴れると、指はためらいながら離れ、ゆらゆら揺れる水面の向こうへ退いた。一部だけひんやりと冷えた鱗が気持ち悪い。違和感を拭うように鰭を揺らすと、エアレーションの気泡の列が無造作に乱れた。
ガラスの向こうで、彼が、氷水に指を浸している。綺麗な白い指に血が集まって、わたしたちみたいに真赤になっている。
熱かったんじゃないわ、反対よ。
意思を伝えようと見つめても、彼の黒い瞳は、平たい電子端末ばかり覗き込んでいる。その光る画面に載っている、わたしの飼い方だとか、注意事項だとかを見ているのだろう。墨のように黒い髪が、頬にかかって鬱陶しそう。頭に瘤を付けている、わたしが言えたことじゃないけれど。
からからと氷のぶつかる音が響く。部屋を見渡しても、ベッドと、キッチンと、テーブルしか目に入らなかった。収納が足りないのか、本が床に積まれている。わたしじゃなくて、本棚を買えばいいのに。立派で、希少なわたしは、ここの家賃と同じか、それ以上のお値段だっただろう。
ハテラス船長の冒険、白鯨、海底二万里。くたくたな背表紙の文庫の隣に、新品の金魚飼育全書が置かれていた。付箋がたくさん張られた小口が嬉しくて、自然と鰭が揺れてしまう。
でも、浮かれちゃだめ。
肉瘤増進と色揚げ効果。餌のパッケージに大きく書かれている文字だって、しっかり見えている。身体に散る、色付いた紅葉のような朱色のためなら、わたしはベランダにだって出されてしまうかもしれない。
日光浴、暗室、生餌。形や色のために試された色々なこと。その懐かしいまぼろしが、気泡のカーテンの向こうに見え隠れした。
ずいぶん長い間浸していた指を引き抜いて、彼はガラスの前に戻ってきた。再び水面が揺れて、長い指が身体に触れる。
ああ、冷たい。
心臓まで冷えてしまいそうな真赤な指が、胸を、腹を、鰭をまさぐる。きっとわたしに、シラミやカビが着いていないか確認しているのだろう。ろ過装置が壊れて数日で、敗血症で死んだ子を思い出す。そういった、ちょっとしたことでも、わたしたちは病みやすい。
「綺麗」
裏返したり、ひっくり返したり、暫くしたいようにさせていると、ため息交じりに彼がこぼした。ずきりと心臓が痛み、思わず彼の指から逃げてしまった。あっ、と残念そうな声と共に、手が離れてゆく。
知っているわ。
憤慨して、大袈裟に尾を揺らす。そんなつまらない評価は、値踏みをするようないやらしい視線と一緒に、飽きるほどかけられた。今さら言われたって、嬉しくもない。エアレーションの気泡が、氷雨のように鱗を打つ。反抗して、底まで沈んだわたしの前に、彼がそっと腰を下ろした。
黒い瞳のなかに、贅沢な観賞魚が佇んでいる。墨がこぼれた扇のような大きな尾に、白い鱗の、浅葱色の光沢。色付いた紅葉のような朱色。錦織、宝石、美しいものすべて。
彼の瞳の中では、きっと、そんなものでしかない。本を買ったのも、扱いが優しいのも、わたしの値段に損をしないためだ。
そっと落とした視線に、彼の指が映った。わたしのために冷やした、わたしに似た真赤な指。
そんなに赤くなるまで冷やしていたら、明日にはあかぎれてしまうかもね。
彼の瞳から逃れたくて、エアレーションの向こうへ隠れる。日本産東錦。視界の端に、ラベルの張られた発泡スチロールが見えた。
「よろしく」
指の関節で、こつ、とガラスをそっと叩く。愛しい誰かを見ているように、黒い瞳が優しく細められている。
揺れている。わたしという価値が、彼の中で揺らめいている。その片一方に、痛いほどの憧憬が溢れた。
わたしはそう在っていいの?
微かに笑って、彼はガラスから離れて行った。後まわしにしていた夕食を食べるのだろう。キッチンに投げ出されたビニール袋から、ロコモコ丼と即席味噌汁のカップが覗いている。細身の背中がシンクへ向かい、やかんに水を入れ、ガス代の明細表が貼られた冷蔵庫から、烏龍茶と、作り置きのおかずを取り出している。
たとえ、身体を包んでいる、贅沢で、美しいものが全て褪せて、なくなってしまっても。
騒がしくなった部屋に、止まっていた尾を動かす。水槽照明に鱗が光沢し、冬の星屑のような煌めきをガラスに映して、向こうに立つ彼の背中を輝かせる。
持て余していた命を、彼は掬ってくれるだろうか。
贅沢な身体の中で、心臓がずきずきと痛む。彼の触れた鱗が、尾が、まだずっとその温度を残していた。
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