前編

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前編

 あー、血が飲みたいなあ。  答案用紙を運びながら瀬川明はそんなことを思った。ついさっき行われた中間試験。六クラス分ともなればそれなりの量になる。  顔を覆う白布は日差しを防ぐと同時に明が吸血鬼であることを示していた。布の隙間から覗く目は血のように真っ赤。覆われた額の上から飛び出る前髪は銀。日本人にしては奇抜すぎる風貌も毎日鏡で見れば慣れる。廊下ですれ違う生徒や教師達は一様に物言いたげな視線を投げかけてくるが、口に出す者はなく、ましてや答案用紙を半分持ってくれるわけでもなかった。いつものことだ。既に諦めている。  部屋に戻って、柘榴ジュース飲みたいなあ。  さっさと仕事を終えようと、明が足を速めた時だった。  渡り廊下の先から見覚えのある黒髪が顔を出した。長身痩躯を包むのは詰襟のシャツにスーツ。足元にまで届く漆黒のガウンは、彼がただの教師ではなく鬼払いであることを示していた。  とてもじゃないが人に教えを授けているとは思えない鋭過ぎる相貌。そいつは明を見るなりただでさえ切れ長の目をさらに細めた。この時点で明は回れ右をして逃げ出したい衝動に駆られたが、あいにく九条の執務室へ続く廊下はこれしかない。真正面から男と対峙する。  渡り廊下は四、五人は通れるほどの幅がある。そのど真ん中で両者は立ち止まった。  睨み合うこと数秒。先に口を開いたのは男――加納玲次郎の方だった。 「どけよ」 「よけて通れば?」  布越しなのでくぐもった声しかでなかったが、聞こえたのだろう。加納は眉間の皺を一つ増やした。かっちりと止めた詰襟から僅かに覗く首筋が目に毒だ。かぶりつきたくなる。 「てめえがどけ」  高圧的な態度。何故こんな男が教師なのだろうか。加納が真面目な顔で教鞭をふるう姿を思い浮かべようとしたが、明にはできなかった。そもそも、不機嫌な顔しか見たことがなかった上に、授業に出席したことがなかったので無理もない。 「一仕事終えた人に労いの言葉もないわけだ」 「テスト回収するだけで給料もらえるとはいい御身分だな」  じゃあアンタもなってみるか、吸血鬼に。 罵倒の言葉は白布の中に留めておいてにっこり微笑んでやる。 「それが教師補佐ですから」  加納は白皙の顔をしかめた。 「なんでてめえみたいな奴を学院に入れたのか……」 「文句なら学長にどうぞ」 「毎日抗議文したためてるが、一向に反応がねえ」  書いてるのか。しかも毎日。 「教師って意外と暇なんだね」 「いや、忙しい。てめえなんぞに構っている暇もねえ。だからそこをどけ」 「先生がよけて通るべきなんじゃないのかな?」 「てめえがどけ」 「少しは譲ったらどうだい? 鬼払いさん」  ありったけの嫌みを込めて告げれば、加納の顔に怒気が走った。 「ンだと? てめえ――」 「朝から何をやっているんだい?」  加納の背中から嫌味な声。二人して見やれば、そこには微かに口端をつり上げた男がいた。黒を基調とした服は加納と同じ鬼払いのもの。切りそろえられた髪といい、病的なまでに白い肌といい、見るからに良いところのお坊ちゃんだ。 「……秋本」  苦虫を噛み潰したかのように加納が呟く。秋本はこれみよがしに深いため息をついた。 「鬼払いともあろう方が吸血鬼に話しかけるなんて。他の方がご覧になったら何と噂されることか……軽率な行動は慎んでくれ」  反論を許さない口調で同僚を諌めると、次は明に呆れともつかない視線を送った。 「遊んでいる時間があるのかい?」 「「だってこいつが」」  互いを指差した加納と明に、秋本は冷たい眼差しを注いだ。ことさら強い牽制が明に向けられている気がするのは、ただの自意識過剰ではないのだろう。 「邪魔者は退散するよ」  明は答案用紙の束を抱えなおすと、二人の脇を通り過ぎた。  忌々しげな加納の舌打ちが、やけに大きく聞こえた。  部屋に戻るなり覆面を外した。すっきりとした輪郭の頬に吊り気味の赤い目、日に透ける銀髪は短く切ってある。万が一顔を覆う白布が外れた際でも「男」だと通すためだ。鏡に映る自分の姿は、髪と目の色を除けば妹にうり二つだった。  吸血鬼が人の心を惑わす、というのは迷信だ。ただ、吸血鬼は好みの女性(大概美人だ)を見つけると勝手に花嫁にして自分の子供を身籠らせる。生まれる子供は必ず男性で吸血鬼となる(そして高確率で美男子だ。遺伝の都合上)。故に女性の吸血鬼は存在しない、とされている。  咬みつかれたら吸血鬼になる、というのも嘘だ。もしそうだとすれば、世の中は吸血鬼で溢れ返っている、とまではいかないが、多少暮らしやすくなっているはずだ。  少なくとも鬼払いによる【鬼狩り】で絶滅寸前にまで追い込まれることはなかっただろうし、吸血禁止法が制定されることもなかった。柘榴ジュースで喉をうるおすこともないのだ。  明は飲み干した紙パックを畳んで放り投げた。柘榴ジュースは放物線を描いて執務室に一つしかないゴミ箱へ。人間の鮮血には程遠いが、トマトよりも柘榴の方が明の口には合った。そもそも明にとって唯一の献血者である九条が不在である以上、ほかに選択肢はない。  机と本棚とミニ冷蔵庫を置いただけで手狭になる執務室だが、今は広く感じた。九条が出張から帰るのは三日後だ。教師補佐として留守中も不備がないよう努めなくてはならない。  明は答案用紙の採点にとりかかった。九条に託された模範解答と照らし合わせて判定し、点数を決める。口で言うのは簡単だが、六クラス分となると気の遠くなる作業だ。  今夜は眠れないだろう。 明は徹夜を覚悟して、冷蔵庫から新たな柘榴ジュースを取り出――そうとした。が、求めていた紙パックの感触を得られず、中を覗き込む。  ない。  箱買いした柘榴ジュースは影も形もなくなっていた。  机の置時計を見れば午後二時半。今日は試験日なので購買部は午前で閉店。駅前のコンビニなら三時前には戻れる。  決心した後は早かった。明は胸を押さえつけるサラシを外した。少し考えて白布で顔を隠すのは止めた。いかにも吸血鬼な人が町中をうろつけばトラブルに巻き込まれる。  かわりに黒のカラーコンタクトを入れる。同色のカツラを被ればどこにでもいる十八の女だ。日焼け止めを念入りに塗りこみ、日傘を装備して外へ出る。人がいないのを確認して学院の裏口から外へと出た。  吸血鬼に女性はいない。しかし、何事にも例外はあるのだ。  赤い目に牙。それが吸血鬼の証だ。  明の場合は銀髪も加わるが、逆に言えば、牙と赤目銀髪さえ隠してしまえば、外見は普通の人間と変わりないのだ。吸血禁止法を守る限り、鬼払いでも吸血鬼を斬ることはできない。しかし、決して吸血鬼が世間に歓迎されているわけではなかった。それを明は十八年の人生で嫌というほど学んでいた。  学院に一番近いコンビニは避けて、駅の、それも反対側のコンビニへ行く。万が一にも知り合いに逢うわけにはいかない。 『鬼お断り』の張り紙付きの自動ドアをくぐって飲み物のコーナーへ。その間もいくつかの視線を感じた。学院内とは違って、悪意は感じられなかったが、居心地は悪かった。覆面を外して黒髪黒眼になっただけでこうも豹変する態度が理解できない。  店頭にあるだけの柘榴ジュースをカゴに詰め込み、数を確認。十八本。三日分あれは十分だ。柘榴ジュースを大人買いしただけでは怪しまれるので、デザートのコーナーへと向かう。 『とろけるプリン』も気になるが、新作の苺パフェも気になる。なかなかの人気らしく、残りはわずか一つとなっている。  やっぱりここは苺パフェかな。ミニカップに伸ばした明の手に、何者かの指が触れた。 「ん?」 「あ?」  新作苺パフェを挟んで二人は顔を見合わせた。烏羽色の髪に映える白皙の顔。必要以上に鋭い双眸。さすがに校内の正装ではなかったが、黒を基調とした服にこれまた足元まであるロングコート。真一文字に結んだ口には甘さなど欠片もない。明は卒倒しそうになった。  仏頂面で苺パフェに手を伸ばしていたのは、私服姿の加納だった。 (………………最悪だ)  変装までして柘榴ジュースを大量購入していることが知られる、のは仕方ないとしよう。吸血鬼の尊厳なんて元々あったものではない。どうでもいい。非常にこの際どうでもいいことだ。問題は、仮に、もし、万が一、女であることが教会関係者の加納にバレたら――明の背筋にうすら寒いものがはしった。  吸血鬼の女は長い長い歴史上、いないことはない。が、稀有な存在であることに変わりはない。世の学者にとっては貴重な研究対象。身も蓋もない言い方をすればモルモットだ。  解剖されて研究される自身の未来に絶望している明の傍ら、加納の視線はひたすら己の手の先にあった。忘れ去られていた苺パフェ。 「……ど、どうぞ」  とりあえず明は手を引っ込めた。 「いいのか?」 「あーはい、どうぞ遠慮なく」 「悪ぃ」  え、嘘でしょ。 『女性に大人気』が宣伝文句のミニパフェが加納の手に収まるのを、明は信じられない思いで見た。明に気がつかなかったのは仕方ない。今まで素顔を見せたことがない上に、今は黒のカラコンにカツラだ。共通点は欠片もない。問題は、加納がレジに運んでいる物だ。  つい譲っちゃったけど、本気でそれ買うの? え、彼女のためとかじゃなくて? ……違うよね。君が食べるんじゃないよね? だって君、確かに男前だけどそんな強面で「一日に一人二人くらいはストレス発散のために殴ってます」って言わんばかりの顔で苺パフェ?  いそいそとレジへ向かう後ろ姿は、とても吸血鬼を狩って狩って狩りまくる鬼払いのものとは思えなかった。明は額に手を当てた。  見てはいけないものを見た。忘れよう。 『とろけるプリン』をカゴに突っ込み、会計を済ませる。日傘を開いて外へ。  自動ドアを抜けた先には「黒刃」の異名を持つ鬼払いが――加納玲次郎が待ち構えていた。レジ袋の外側からも苺パフェが辛うじて透けて見える。 「悪かったな」 「いいえ、あの、私もどっちにしようか迷っていたもので」  礼はいいから立ち去ってください。プリンもあげますから。  切実な願いも虚しく、加納は明の持つ袋を一瞥した。 「柘榴、好きなのか?」 「ええ……まあ、それなりに」 「大した量だな。一人で飲むのか?」  余計なお世話だ。だいたい、誰のせいで柘榴ジュースで喉をうるおす羽目になったと思っているんだ。吸血禁止法を破ろうものなら問答無用で斬りかかってくるくせに。 「まあ、その、喉が渇くもので」  へえ、と口端を軽くつり上げて加納は腕を組んだ。 「それが何か?」  黒曜石を思わせる瞳でじーっと見詰めた後、加納は小さく「いや」と呟いた。いつものつっけんどんな態度はどこへやら。目の前にいる人物が本当に加納玲次郎であるのか疑わしくなってきた。  何よりも、加納が向けてくる真摯な眼差しが、明を非常にいたたまれない気持ちにさせた。 「それ、瀬川にやるためのものじゃないのか?」  弾かれたように顔を上げて、明は後悔した。認めているようなものだ。 「どうして……」 「言われたことないか? 声と雰囲気がよく似てる」  まさか同一人物だと馬鹿正直には言えなかった。返答に窮していたら、それを不信感だと解釈した加納が名乗った。 「学院で教師をやっている。加納だ」  他人行儀。好都合だ。明はにっこりと愛想よく微笑んで、 「姉の……瀬川あかりです。弟がいつもお世話になっています」  誤魔化すことにした。  対人外生物用特殊部隊、通称『鬼払い』。政府が唯一銀刀の携帯と使用を認めた戦闘集団は、先の大戦でその実力を遺憾なく発揮した。  個々の能力では人間に大して圧倒的有利を誇っていた吸血鬼も、戦闘訓練を受けた悪魔払い達にはかなわなかった。身も蓋もない言い方をすれば数に負けたのだ。ただでさえ数が少ない吸血鬼は一時種の存続まで危ぶまれたという。  全面降伏をした吸血鬼達に対して政府が突きつけた条件が、吸血禁止法だ。  吸血禁止法が制定されて早六年。以来、吸血鬼は衰退の一途を辿った。教会の鬼払いとも対等に渡り合っていた吸血鬼たちも、今は身を潜める他ない。周囲には人間と偽って社会に溶け込むか、少数の群れをなして人里離れた場所で隠れ住むかの二つに一つ。いずれにせよ、吸血鬼には住みづらい世の中になった。  しかし吸血禁止法が吸血鬼を縛ると共に守っているのも事実。人の血を勝手に吸わないかわりに、【鬼狩り】は制約されたのだ。必然的に鬼払いも変わる。闇雲に吸血鬼を狩るのではなく、吸血禁止法を基盤として吸血鬼の監視、必要とあらば粛清を担うことになった。こうして日本は(表面上)平和になったと言えなくもない。  とはいえ、鬼払いをはじめとする人間と吸血鬼の間にある遺恨は、悪化したまま一向に改善されていなかった。  翌日、職員会議中むず痒い視線を感じつつも明は完全無視を貫いた。黒い髪が視界に入れば、一八〇度方向転換。気配が近づけば早歩きで逃げる。幸いなことに今日は試験二日目で、午前中はどの教師も教師補佐も試験監督をしなければならない。午後は採点作業。いかな鬼払いといえど部屋にまで押しかけることはできまい。仮に来たとしても居留守を使えばいい。  算段を立てて購買にて昼食の確保。が、手にしたチキンカツパンが横から奪われた。 「朝からガン無視たあ、いい度胸だな」  凄みのある低音。明は喉まで出かかった悲鳴をなんとか白布の奥に呑み込んだ。 「何? チキンカツパンが欲しいの?」 「ンなわけあるか」  すげなく否定。加納は仏頂面でチキンカツパンとおにぎりをレジへと持って行った。石榴ジュースとブラックコーヒーを追加。財布を出しているところを見ると、どうやら奢ってくれるらしい。  昼食を人質に取られてしまえば、明に選択の余地はない。心持ちしっかりと顔を覆う白布を締め直した。連行された場所は人気のない鬼学準備室。吸血鬼をはじめとする鬼の生態とその対処法を教えるのが加納の教師としての仕事だ。  答案用紙が山積みにされた机に加納はおにぎりを置いた。部屋は衝立で二つに区切られている。反対側の机──秋本の陣地なのだろう、何気なく目をやって明は激しく後悔した。  机の上にはホルマリン漬けされた牙やら爪やらが保管されていた。全て鬼払いが狩った吸血鬼のものだ。趣味の悪さに吐き気さえ覚える。 「趣味悪ぃ」  呟いたのは加納だった。 「何回言ってもやめやしねえ。せめて飾るのだけは遠慮していただきてえもんだ」 「珍しく意見が一致したね。僕もそう思うよ」  チキンカツパンを受け取り、明はパイプイスに座った。加納に背を向けて、口元を覆う布を顎まで下げる。人前で食事をするときはいつもこうしている。 「で、僕に何の用? 正直言って、昼食奢ってもらって一緒に食べるほど親しくなった覚えはない」 「その様子だと、昨日のことは聞いてるようだな」  いいえ、現場を目撃した本人です。訂正の言葉はチキンカツパンと一緒に呑み込んだ。 「姉さんから聞いたよ。君がどこで苺パフェを買おうが僕には関係ないし興味もない。誰にも言わないと約束するよ」  会話の終了を示して石榴ジュースを飲む。加納はそんな明をしばらくじっと見つめていたが、やおら缶コーヒーを机の上に置いた。 「なあ、お前の姉貴のことなんだが……」  まさか。明の背筋に薄ら寒いものが走った。バレたか。素顔を知らないとはいえ、さすがに知り合い相手にカツラとカラコンだけでは無理があったか。 「いくつだ」  たっぷり十を数えるほど、明はその意味を考えた。鼻まで布を覆い直し、振り向く。 「いくつ?」 「歳だ」 「……二十歳、くらい、かな?」  姉の年齢がはっきり言えない弟を不振に思う素振りもなく、加納は考え込んだ。 「大学生か?」 「うん。まあ……それがどうかした?」  黒曜石を思わせる瞳に逡巡の色が浮かんで、消えた。意を決したように加納は顔上げた。 「俺と付き合ってくれねえか?」  驚かない、と言えば嘘になる。しかし心のどこかでは予想していた。これでも中学生時代は引く手あまただったのだ。カツラをかぶり、カラコンを付けた状態の明は、美人の部類に入った。妹と同じく母親に似ているらしい。吸血鬼に見初められるくらい、美しかった母に。  だから、異性からそういう目で見られることには馴れていた。ただこの男も同類であることには少々落胆した。ああ加納よ、お前もか。  明は石榴ジュースを手にしたまま立ち上がった。 「駄目、絶対」 「おい待て」  制止の声を無視して扉を開けようとした。が、できなかった。 「誘拐の次は監禁。今度は何だ。脅迫状か。どこに送るつもりだ。姉さんなら無駄だぞ」 「パンとジュースだけでホイホイついてくる馬鹿のために身の代金払う奴がいるかよ」  鍵を閉めた張本人は呆れ顔。毛を逆立てる明の手を取り、メモ用紙を握らせる。中身を見て明は卒倒しそうになった。携帯の電話番号。誰のかなんて想像したくもない。 「姉さんには渡さないからな。燃えるゴミの日に出してやる」 「勘違いすんな。別に交際してえわけじゃねえ。明日俺に付き合ってほしいだけだ」 「明日デートしたい、と?」 「まあ、そういうことになる……な。おそらく」  やけに歯切りが悪い。覆面の奥にある怪訝な明の表情に気づいたのか、加納は観念したように深いため息をついた。 「……あのな」 「いや、説明しなくていい。何を言っても僕は協力しない。石榴ジュース一箱積まれてもやらない。ご馳走様でしたさようなら」  明は扉の取ってに手をかけた。血を飲んでいないので多少弱っているが、無理矢理こじ開けるくらいの力はあるはずだ。 「ちょっ……待てや!」  強く肩を掴まれる。馬鹿力だ。痛い。 「邪魔しないでくれ。これから採点作業があるんだ。忙しいんだよ。これでも教師補佐だから」 「採点が終わればいいのか」 「今日の試験を入れて残り八クラス分。一日じゃ無理だね」 「終わればいいんだな?」  よくねえよ。突っ込もうとしたが、それよりも早く加納は動いた。  準備室の鍵を開けて渡り廊下を通って九条の執務室へ直行。有無を言わせず明に部屋の鍵を開けさせて突入。山積みになった答案用紙に怯むことなく採点作業に取り掛かる。 「模範解答はどこだ」  勝手に机を陣取り、訊ねる。あまりの自然な態度に明もつい「二番目の引き出し」と教えてしまった。 「てめえもやれよ。終わらねえだろーが」 「……あ、はい」  半分受け取って折りたたみ式ちゃぶ台を組み立てる。答案用紙を置き、赤ペンを握り、明は首をひねった。  あれ? 何かおかしくないか。  教師四年目なだけあって、加納は手早かった。彼とは無縁の音楽の試験でも、模範解答を確認しながら量をこなしていく。時折明に答案を見せて判断を仰ぐこともあるが、採点速度は比べ物にならないくらい早かった。  ただ、明ならばオマケするような間違いでも加納は容赦なくバツにする。鬼教師と生徒に恐れられる所以を垣間見たような気がした。しかし、非常に公平とも言えた。加納は贔屓をしない。授業の開始と終了時刻はきっちり守る。一度約束したことも必ず守る。相手が誰であろうともだ。故に生徒から信頼されている教師でもあった。  そうしている内に採点作業は無事に終了。明は話を聞く羽目になった。  重々しい表情で加納が説明するにはこうだ。  つい一週間前、指名手配中の吸血鬼と思しき男を見かけた、との報告があった。通常ならば土下座されても断るところだが、人手がないので仕方なく、非常に不本意ながらも秋本と共に情報提供者の元へ行った加納。人相を確認したら、確かに無差別吸血犯に似ている。しばらく様子を見ようと容疑者を尾行していた時だった。  容疑者がランチを終えた後に入ったのは、イートインの洋菓子店。季節ごとに変わるチョコレートパフェが目玉の有名店だった。 「普通入るか? 男一人で平日の真っ昼間から」  コンビニで苺パフェを買う男に非難されるいわれは、向こうにはないだろうが。  それはともかく、尾行のため渋々入店した秋本と加納。容疑者の様子がうかがえる席に座り、適当にコーヒーでも注文しようとしたら――挨拶に来たそうだ。 「誰が?」 「店のショコラティエ」  専属のチョコレート職人がいて、そのショコラティエが加納を見かけて「お久しぶりですね。今日はパフェですか? 新作のザッハ・トルテ、よろしければぜひお試しください」と親しげに話しかけてきたのだ。いつも通り。しかしいつもと違うのは、加納の向かいに秋本が座っていることだ。 「空気読めよ! 俺たちが一緒にパフェをつつくほど親しく見えるか? よりにもよって奴の前で、俺が季節のチョコレートパフェが変わる度に最低四回は食っていることを匂わせやがって!」  頭を抱える加納に、明は頭痛を覚えた。馬鹿馬鹿しくって声も出ない。厨房に籠っているショコラティエに顔を覚えられる程通いつめる加納にも非はあると思う。 「……で、肝心の吸血鬼は?」 「あ? 店出た瞬間に蹴り飛ばして刀突き付けて確認したら本人だった」  哀れ八つ当たりまがいの扱いを受けた吸血鬼は、無事に連行されたという。めでたしめでたし、では済まなかった。残念ながら。  報告書を作成している時に秋本が嫌味な笑みを浮かべつつ訪ねてきたそうだ。  ――君、あの店の常連なの? いつもは一人で行っているのかい? 「ああ、そうだよ悪いか畜生! 客が少ない時間帯を見計らってこっそり食ってるよ!」  と、今開き直っているように、最初から正直に認めれば良かったのだ。しかし男としての沽券に関わるとかで、苦し紛れに加納は「付き合っている女が甘党」と嘘をついたらしい。  無論、そんな彼女は存在しない。 「それからだ。事あるごとに奴は『私にもその彼女を紹介してくれ』としつこくしつこく追及してきやがる……っ!」 「だから、とりあえず甘党の彼女を仕立てて、納得させようと?」  あまりのくだらなさに明は全身の力が抜けていくのを感じた。 「正直に言えば済むことじゃあ……」  呟いた言葉の威力は絶大だった。面白いくらいに加納は体を強張らせた。睨みつけてくる眼光も今はどうも情けない。 「……歳の数だけ腹を搔っ捌いた方がマシだ」 「二十一回も切腹するんかい」  たかが甘党隠ぺいのために。 「考えてもみろ。政府が唯一銀刀の携帯と使用を認めた組織の一員が、吸血鬼をはじめとする鬼どもを恐怖に震えあがらせる【黒刃】が、週に三回はケーキ屋に赴いてたり、その手の雑誌を定期購読してたり、あまつさえ月に一回は読者投稿で載ってたりしていることがバレたら――」  自分で言ってるそばから加納は顔を青くした。 「誰がそんな鬼払いを恐ろしいと思う? むしろ末代までの笑いもんになるだろーが!」 「だからって見栄を張らなくても」 「プライドの問題じゃねえ。士気の問題だ。犯罪抑止のためにも鬼払いはコーヒーをブラックで飲む硬派な野郎でなければならねえ。少なくとも、そう思わせなければ国民の安全は守れない」  コーヒーにミルクを入れるか否かで左右される安全ってどんだけ脆いんだ。こんな連中に敗れた先輩吸血鬼たちが明には哀れに思えた。 「じゃあ、甘いものやめれば――」  言葉は最後まで言えなかった。死刑宣告された囚人のごとく加納が悲壮な表情を浮かべたからだ。やめられるくらいなら、わざわざ駅の裏側のコンビニまで足を運んで苺パフェを買うはずがない。 「明日で試験は終了する。その後に俺はありもしねえ『俺の彼女』を連れて紅茶専門店『ダンケ』に赴き、奴に紹介しなくちゃなんねえ」  だから「明日デート」なのか。明はため息をついた。 「事情はわかった」  目を輝かしてこちらを見る加納に、明はハッキリと言った。 「でも嫌だ。僕、の姉さんをそんなことに巻き込みたくはない」 「てめっ……ここまで喋らせておいて」 「聞けば聞くほどくだらなさが増してきたよ。甘党宣言でもなんでも勝手にやればいいじゃないか。自業自得だ」  採点の終えた答案用紙を奪い取った。冗談ではない。一瞬でも協力してやろうかと思った自分が馬鹿だった。スイーツ好きがなんだというのだ。 定期的に他人の血を摂取するのに比べれば、甘党くらい。  自室(正確には九条の執務室)なので明の陣地だ。アドバンテージはこちらにある、と踏んでいたが、甘かった。さすがは吸血鬼を狩る鬼払い。獲物の追跡には容赦がない。加納は立ち去るどころか明に詰め寄る勢いだ。 「彼女にするなら、他にも適当な娘がいるじゃないか」 「例えば誰だ」  腕を組む加納を明は見つめた。傲岸不遜および甘党は見ただけではわからない。幸運なことに彼は男前。武闘派ではあるが、その若さで教師と鬼払いを兼任するくらい優秀でもある。仕事一筋でストイックな雰囲気も好感が持てる。  生徒達にも人気があることを明は知っていた。調理自習で作ったマドレーヌが加納の机の上に胸焼けがしそうなほど置かれていたのを、見たことがある。モテる先生も大変なこって、と半分気の毒にも思ったりもしたが、なんのことはない。加納にしてみれば好物だったのだ。喜んで完食しただろう。 「……生徒に頼むとか」 「俺が懲戒免職になる。そもそも、こんな馬鹿げた茶番に付き合い、なおかつ一生黙っていてくれるようなお人好しがいるとは思えねえ」  じゃあ頼むなよ、吸血鬼に。もっと可能性が低いだろ。 「とりあえずさ、昨日みたいな私服姿で駅前をうろつけば? そのうち女の子の方から話しかけてくるかもしれない」  加納は愁眉を軽く上げた。 「何故俺の服装を知っている。お前も昨日、外出していたのか?」 「姉さんから聞いたんだよ」  変なところで鋭い。内心冷やりとした明は強引に話題を変えた。 「彼女の一人や二人くらい、君ならすぐに作れるよ」  激励の言葉にしかし、加納は不機嫌な顔になった。 「てめえらと一緒にすんじゃねえ」  侮蔑を込めて言い捨てる。吸血鬼が子孫を残すため、手当たり次第に女性を襲っていたことを指しているのだろう。  でも中には、吸血鬼だと言えないままに愛した者もいるはずだ。子供が生まれて初めて伴侶が吸血鬼だと知る場合も少なくはない。黙っていた吸血鬼に非はあるが、血や子孫を求めたわけではない。それでも、騙したことになるのだろうか。 「全部好きになってくれ、だなんて無茶は言わねえ。でも、俺が好きなものくらいは受け入れてくれる奴じゃないと、やってらんねえよ。虚しいじゃねえか」  明はつい机の下に置いてある鞄に目をやった。あの中に「あかり」になるための道具一式が入っている。中学生の時は毎日装着していたものだ。人間のふりをして過ごした。 言えなかった。知られるのが怖かった。好きな人だからこそ。  ――私の好物は人の血です。  とは、どうしても言えなかった。 「じゃあ、心の広い女性を探すしかないね。明日までに」  勝手にやってくれ。明の意図を的確に読み取った加納の眼光が鋭くなる。 「絶対駄目か」 「駄目だね」 「どうしてもか」  明は加納の視線を真っ向から受け止めて、大きく頷いた。 「他をあたった方が得策だよ」  答案用紙を机の上に置いて、クラス毎に分ける。加納に背を向けて存外に帰れと促した。 「なら、仕方ねえ」  不穏な衣擦れの音に、明は振り向いた。  床に放り投げられた上着。白シャツの詰襟ホックを器用にも片手で外し、白い首筋を惜しげもなく晒す。加納は襟元を無造作に引っ張り、鎖骨までもあらわにした。 「交換条件だ。飲め」 「は?」 「俺の血を吸わせてやる。その代わり協力しろ」  大真面目な顔で告げる加納。明は果てしない疲労感に襲われた。 「犯罪だって!」 「合意だろ? 吸血禁止法だって同意を得ての吸血行為は認めている」 「僕が嫌だ。すっごく嫌だ。よって合意は成立しない」 「なんでだ。自分で言うのもなんだが、美味い方だと思うぞ」 「いや、味の問題じゃなくて、なんというか……そういう気分になれないというか、情緒がないというか」 「情緒だあ?」  加納の眉間に皺が一つ追加された。 「てめえそれでも吸血鬼か。据え膳喰わぬは男の恥って言うだろうが」 「自分から首差し出す据え膳があるか!」  明が女であることはさておき、博愛主義にも限度がある。こんなアグレッシブな据え膳をどういただけばいいのだ。その前にこの男は教師で鬼払いだ。吸血鬼を取り締まる役職のはずだ。何故吸血行為を推奨する。しかし、それにしても――  あらわになった首筋に目をやってしまうのは吸血鬼の性だ。 (たしかに美味しそう)  なんて思っていたら、据え膳の方から迫ってきた。 「ちょ……待て、落ち着け早まるな目が血走っているぞ。まずは胸に手を当てて自分の名前と役職と職務内容を唱えるんだ。吸血鬼に血を提供する鬼払いなんて聞いたことが」  後ずさる明の背には壁。横を向けば加納の腕。完全に逃げ場は塞がれた。しかも目の前には心拍数を跳ね上げる端整な顔。 「ガタガタぬかしてんじゃねえよ。てめえも吸血鬼なら腹括れ」  十八年とはいえ波瀾万丈の人生を送ってきた自覚はある。  赤目銀髪というどっからどう見ても吸血鬼だとわかる特異な容姿のせいもあって、両親は離婚するわ、同級生にはイビられるわ、踏んだり蹴ったりの幼少時代。地獄の義務教育終了後には世間の冷たい目。ようやく見つけた職はよりにもよって学院の教師補佐。長い歴史を誇る吸血鬼族の中でも稀に見るおかしな部類になりつつあるが、自分は吸血鬼なのだ。人の血を求めてさすらう鬼だ。自覚は十分にある。 しかしそれでも、明は心の底から思った。 (飲みたくない……っ!)  首筋に咬みついたら最後、一生後悔する予感がひしひしとする。咬むな。吸うな。飲むな。誘惑に負けたら終わりだ。そう思うのに、喉は急速に渇いていく。  牙を立てて皮膚を破って血をすする。芳醇な匂いと甘美な味が喉の奥から蘇り、明は生唾を飲み込んだ。  簡単なことだ。黒いコンタクトを装着してカツラを被って、ちょっと化粧して着飾って彼女のふりをする。代わりに血をほんの少しいただく。お互いに納得した上での物々交換だ。加納は体面を保てるし、明の渇きも癒される。何がいけない。合理的じゃないか。 (でも)  明は俯いた。人間の鮮血を前にしても高揚感はなかった。ただ、たとえようもなく虚しかった。吸血鬼であることを利用されている。おまけに加納が求めているのは、明ではなく、あかりなのだ。 (……みじめだ)  覆面に掛けた加納の手を明は握った。意識して低音の声で牽制する。 「これを取ったら、僕は絶対に君を赦さない」
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