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I got rhythm―4
遙か彼方で小さな星が瞬いている。星の明かりは不思議だ。じっと目を凝らすと、光の輪郭が僅かにゆらいでいて、健気な星の息吹を感じることができる。だが、視覚障害脳圧症候群で低下した俺の視力は、そんなささやかな愉しみすら許さなかった。その時、ヘッドセットからややノイズがかった人の声が聞こえてきた。
「……なんてこった……どうしよう……カーゴベイに当たったらコトだな……」
途切れ途切れになって話の内容は判然としなかったけれど、今の俺には人の存在がもたらす安心感の方が重要だった。俺はヘルメットの上からこめかみを押さえつけて、中に装着したヘッドセットを耳にぎゅっと押し当てた。
「メーデー、メーデー。こちらJC〇六六三、第七工区フィールド・オブザーバーのゴートだ。誰でもいい、近くにいる奴は助けに来てくれ。今すぐだ!」
豆粒大の光は次第に大きくなっていた。星のように見えていた光源は、船のヘッドライトだった。光の尾を曳きながら接近してくる宇宙船は、かつて観たSF映画を彷彿とさせた。
「おい、誰かそこにいるんだろ? 聞こえてるのなら応答してくれ、頼む……」
「こちらBMF三三〇二、フェデックス社のチェン・ツィー。通信状態は良好だ。オーバー」
女の玲瓏な声だった。中国訛りのある英語は聞き取り辛かったが、そんな欠点を補って余りあるほど、女の声は美しかった。
「BMF三三〇二、今からこちらの座標を送る。作業監視船が衝突して命からがら逃げ出してきたんだ。とにかく助けてくれ!」
俺は視線を動かしてヘッドディスプレイ上に浮かんだインベントリを操作すると、現在地の座標をバイナリデータに変換して送信した。
「JC〇六六三、座標データを受信した。これから確認して――」
「おい、どうした! BMF三三〇二、聞こえてるのか! 応答しろ、くそったれ!」
俺は作業ユニットの操縦桿を思いきり叩いた。その時、虚空の彼方で煌めいていた蒼白い光源が、わずかにゆらいだ。背筋が凍りつき、空っぽの胃袋が軋み、心臓が早鐘を打ち始める。俺はディスプレイから計測ツールを呼び出して、光源のあたりをズーム表示にした。嫌な予感は的中していた。フェデックス社の資材搬入船を取り囲むように、無数のデブリが浮遊している。搬入船に群がるデブリは、まるで動物を襲う蜜蜂の大群のようだった。
大小様々なデブリが搬入船の船体に衝突する。瞬く間に船は真っ二つになり、衝突と分離を繰り返して新たなデブリを生み出す。カーゴベイから飛び出したコンテナが宇宙に投げ出される。新たに創出されたデブリが『フェデックス』のロゴが入ったコンテナに大量の穴を穿つ。コンテナの中から生活用水が漏れ出し、球体の雫となって宇宙空間を漂う。やがて辺り一面に無慮数千の雫がまき散らされ、船のヘッドライトがそれらに反射して光彩陸離たる光景を作り上げる。拡大表示された画面に広がる光景は、息を呑むほど美しかった。「神々しい」とは微塵も思わなかったけれど、ハーランドの言ったことの意味が少しは理解できた気がした。俺はふんっと鼻を鳴らすと、操縦桿を右に倒して船と反対の方向に向かって進み始めた。
二ブロック先には、別の作業監視船が停泊しているはずだった。円柱状のレストエリアの周囲を約四〇の作業監視船が取り囲んでいる。各船には二人の作業監視員と四つの作業ユニットが積まれていて、監視員たちは交代で作業ユニットの仕事ぶりを監視することになっていた。ハーランドが逝って以来、俺は一人で業務をこなしてきた。ワシントンの本社は、執拗に人員を補充しようとしたけれど、俺は「精神的ストレス」を盾に奴らの要求を撥ねつけていた。
俺は一人になりたくて、宇宙へ来たんだ。人と関われば面倒に巻き込まれるだけだ。それなら、一人の方がいいじゃないか。俺のことは構わないでくれ、放っておいてくれ。操縦桿を握ってスラスター噴射をふかしながら、俺は満眸の暗闇を見渡した。ヘッドディスプレイに示された空域マップには、俺のシグナルだけがぽつんと表示されていた。辺りには人の気配もなく、光もなければ音もなく、何もなかった。これまで一度として、一人であることを寂しいと感じたことはなかった。むしろ、一人の方が気が紛れた。だけど、今は無性に人の声が聴きたかった。
俺は視線を動かして、ヘッドディスプレイの隅から通信ログを呼び出した。二〇〇件を超える不在着信の中から、母の名を探すのは骨が折れた。ようやく母の名を見つけると、俺はつかの間逡巡したのち、視線を動かして発信した。呼び出し音が数回鳴った後、母の声が聞こえた。
「もしもし……」
五年ぶりに聞く母の声には、そこはかとない哀しみが滲んでいた。誰もいないコネチカットの古びた家で、一人で電話をとる母の姿が思い浮かんだ。
「久しぶりだな、母さん」
母は驚きの声をあげ、しばらく沈黙したかと思うと、おもむろに泣き始めた。その泣き声は愛おしくなるほど沈痛な色を帯びていた。俺は声をあげないよう、下唇を噛み締めながら涙した。涙が頬から離れてヘッドセット内を漂った。
「あんた、クリスマスは帰ってこられるの? 隣のリンクウッドさんから頂いたローズマリーでチキンでも焼こうかと思うんだけど…… クロエは仕事が忙しくて帰れないんですって」
涙声で話す母の言葉には、かつてないほど強い懇願の気配が感じられた。俺は自分のしでかしたことの、五年間も連絡を絶ったことの重大さを、ひしひしと感じた。
「分かった……今年は帰るようにするよ。必ず帰るから、チキンは焼いておいてくれ」
母さんはまだ何か良い足りないといった様子だったけれど、俺は通話を切った。再び静寂が全身を包み込み、俺は声をあげて泣いた。俺は今、一人だった。たった一人――どうしようもないくらいに、一人だった。自分の殻に閉じこもって生きるのが、人生なのだと思っていた。一人で居るのは心地が良かったし、苦痛は感じなかった。バーで不味い酒を飲みながら、本心は毛ほども思っていないのに「そうだね、うん、分かるよ」とか歯の浮くような言葉を並べるのは、俺の性に合っていなかった。うわべだけを取り繕う人付き合いに嫌気がさして、俺は地球を捨てた。重力に縛られるのも、世俗の塵埃にまみれるのも、皮相的なお喋りにも、心底嫌気がさした。全てをきれいさっぱり忘れたかった。だが、その結果がこのざまだった。
齢四一の人生を振り返って、これといって特筆すべき出来事もなく、悩みを打ち明けられる友もおらず、俺は宇宙の片隅で時間を食い潰している。何かしよう、何かしなきゃ――そんな焦燥感だけが募って、俺の胸を締め付ける。そのためには、リズムが必要だった。人生の均衡を揺り動かす、大きなリズムが。その時、ヘッドディスプレイに示された空域マップに新しいマーカーが出現した。【JC〇五五三】と示されたそれは、探し求めていた監視船に違いなかった。俺は操縦桿をぐいっと押し倒して、作業ユニットを加速させた。
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