一章

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一章

もしも、これがラブコメなら。 食パンを咥えているのに「遅刻遅刻〜」と器用に宣いながら駆ける主人公が、意中の人とぶつかって出逢うなんてイベントがあってもいいのかもしれない。 しかし実際に俺に起こったのは、あまりにも偶発的で現実的な事故だった。 「ちょっと時間が押していますんで。間に合わないと怒られるんで。とにかく急ぐんで」 とのことで超特急で走っていた人力車が男性にぶつかった。だから安全運転で頼むと言ったのに。 不意に現れた若い男と衝突し跳ね上げた運転手は、パニックのあまり逃走した。倒れた男の方は目立つ外傷はなかったものの、声をかけても起きない。一応触れてみて意識も鼓動もないことを確かめた俺は、めっちゃ運転手の後を追いたくなった。幸運にもというか目撃者はゼロだったからほんの僅かに迷いが生じてしまった。救急車を呼ぼうにも先ずスマホ持ってなかったし、そもそも病院は何処って感じだし。俺も結構慌てていた。 けど、たとえ自分がいるべき本当の世界でなくても……目の前でまだ生きている命を見逃すことはできない。というわけで、理解も不十分なまま送り出された俺は先ず、見ず知らずの青年の心肺蘇生を試みる羽目になった。 躊躇いつつ、できることはやってやろうと決意して……唇を重ねた。今では確か、感染のリスクがあるから特定の器具でもなければ人工呼吸はせずに心臓マッサージだけで済ませて良いらしいけど。まあ、俺がいる時代より昔っぽいしいいかと考えることにした。 あ!でもこの体、自分のじゃなかった。 「ファーストキスだったらどうしよう!?」 二回息を吹き込んだ後、思わず俺は叫んだ。 すると、まるでそれにビックリしたかのように青年の体も微かに跳ね上がった。 「おわっ!だ、大丈夫ですか?」 ぱちりと目を見開いた男を見下ろし、驚きを抑えて問いかける。 地面に伏していた青年は、ゆっくりと手をついて起き上がった。俺の顔をぼんやりと見つめ、夢遊病者のような朧げな表情で口を開く。 「ん、うむ。……おそらくは、衝撃に少々脈を乱したのだろう。今はもう、何も問題はない」 少し心もとない背中を支えて、俺は謝罪した。 「おr……私の乗っていた人力車がぶつかってしまって、本当にすみません」 よくよく考えてみれば自分の寝坊も一因ではあるので、申し訳なさに身が竦んだ。彼が助からなかった場合のことを想像して、不覚にも睫毛が震えて一筋の涙が頬を伝う。 「いや、ちn……こちらも余所見をしていたからな。そなたが命を助けてくれたのだし、お互い様ということで構わない」 なんと心の広い人だろうかと思わず感動してしまった。天の声のあいつより余程神ってる。俺が内心で感涙に浸っていると、やわらかく微笑んでみせた青年がふと指を伸ばして頰に触れてきた。 知り合ったばかりの男に触られて、俺は突発的に躱すような動作をしてしまった。それを見て何を思ったのか、青年はおかしそうに目尻を下げた。 「涙を拭おうとしただけだ。そう怯えないでくれ」
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