「表現の不自由・その後」展示中止に思うこと

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「表現の不自由・その後」展示中止に思うこと

f8047191-443d-4910-afce-374b2a0f6935 5381回、これまでに僕がツイートした総数だ。その間、一度でも他者から、これを書け、これは書くなと指示されたことはない。書きたいことはもちろん、表現の「匙加減」も、すべて自分自身にゆだねてきた。つまり、好き勝手に書いてきた。 そうしたかったからそうしてきた。そうすることが楽しいからそうしてきた。反発や非難もあった。その時はたしかにいやな気分になるけれど「しょうがないや」と腹をくくってきた。反発は、表現の自由についてまわる双子のようなものだと思っている。私に表現の自由があるのなら、批判する相手にだって表現の自由がある。 さらにいうなら、表現することによって他者を傷つけてしまうこともある。僕にもあっただろう。もっというなら、意図的に相手を傷つける表現も存在し得る。そうした「加害」もひっくるめて、僕は表現の自由だと思っている。 なぜ、それほどまでに表現の自由を絶対視、神聖化するののか。 それは、僕にとって自由に表現することはすなわち(これはクリエイターや芸術家だけではなく、すべての人々にとって)「生きること」と同義だからだ。大げさではなく本気でそう思っている。 今回「表現の不自由展・その後」に対して、批判や中傷では飽き足らず、明確な恫喝や脅迫があった。それは、ぼくにとって生きる場所を削られることに等しい。とても悲しくやるせない出来事だ。 いまは悩んでいる。その脅迫や恫喝さえ、表現の自由に含まれるのではないかと悩んでいる。脅迫は法令違反なのだから、警察や司法が対処すればいい。そうではない。法律や常識や倫理や芸術論やイデオロギーや歴史を「絡めて」論じているのではない。ただ、ただ、自分の居場所がなくなってしまいそうで、そのことが恐ろしく悲しく悔しいのだ。自由に表現することは、空を飛ぶようなものだ。本当は飛べないことがわかっているからこそ翼をいとおしく思う。 表現の自由か否か、その「線引き」はいったいどこにあるのだろう。飛翔ルートや高度、距離、飛行姿勢を評価されることは先に述べた通り、相手方の表現の自由だ。が、今回は違う。 理由はどうであれ、彼らは翼そのものをへし折ろうとした。それが超えてはいけない一線だ、と思う。彼らは自分たちは羽ばたきながら、翼そのものを否定した。もし、翼が折られてられてしまったら。私たちは一生、飛べなくなる。地べたを這いずり回ることになる。 ※ドローイング:雪下まゆ
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