Mさんのこと

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Mさんのこと

f6859ed1-7b73-4060-92af-0cda531c7e71 元上司のMさんは、週に一度くらいの割合で「雪崩れ」を起こした。 机のまわりにうず高く積み上げられた資料が崩落するのだ。打ち合わせに遅れることは日常茶飯事だったし、名刺の代わりに商店街のスタンプカードを差し出しているのを二回目撃した。お金がないのにタクシーを拾い、支払いの段になると「ごめん。ごめん」と頭をかいた。 声は小さいし笑いながら話すので、なにを言っているのかよくわからない。机の上には、お菓子の食べ残しやクリーニングのビニール袋につつまれたシャツなどが散乱していて、平らな場所は、マウスを動かす葉書一枚ほどのスペースしかなかった。夏になっても、肘の抜けた薄っぺらなセーター姿。 あるとき、ついに虫がわいた。総務からお灸を据えられていた。結婚していたけれど、家では毎日コンビニ弁当を食べているという噂が立った。そんなことどうでもいいのにと内心思いつつ、Mさんならあり得ると思っていた。その噂をネタにからかう人がいた。珍しくMさんは少し怒った。「家で毎日コンビニ弁当だとしても、僕は奥さんがすきなんです」というようなことを言っていた。的外れな反論だけど、Mさんらしいな、と思った。 そんな人だったから、みんな、あからさまに彼をバカにしていた。それでも本人はヘラヘラしていた。つかみどころがなかった。綿菓子みたいな人だった。僕は、どうしてだかいまだに理由はわからないけれど、彼のことがきらいではなかった。いや、むしろ好きだった。 あるとき後輩が「このコピー読んでくださいよ」とゲラをもってきた。小さなモノクロの雑誌広告だった。そんな仕事を、という言い方は失礼だけれど、まさかMさん本人が書いているとは思わなかった。そもそも彼がコピーを書いているのを見たことがない(そのときはじめて気づいたのですが、Mさんは、優先的に大きな仕事を僕らにまわしていたのです)。一読して鳥肌が立った。なんども読み返した。言葉にならなかった。しびれるような文章とはこのことかと思った。 そのMさんがある文芸誌の新人賞を獲った。すぐに単行本化され、専任の編集者がつき、芥川賞の候補作になった(正確を期すなら、その文芸誌で新人賞を受賞すると自動的に芥川賞にノミネートされる)。社内は大騒ぎになった。普段は「よう、M!」と呼び捨てにする男が「Mさん」と敬称つきで呼びはじめた。掌を返すとはまさにこれだな、と、ため息まじりにそんな光景をぼんやり眺めていた。 結局、Mさんは芥川賞を逃した。会社も辞めた。いまはどうしているかわからない。作家になるのはそれほどむつかしいことではなく、作家でありつづけることが何倍も大変だという。そうなのだろうな、とも思う。 僕は、いまもあのコピーが忘れられない。文章の一字一句ではない。読んでいる最中に駆け抜けた風が忘がれられない。Mさんは、無名のままだけれども、僕の中では今も大作家だ。 (コラージュ:Dominique Fortin)
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