掃除人の告白

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そのまま、もくもくと掃除を進める。 姫様は相変わらず僕を見ていた。 特に会話があるわけではない。 時々視線を感じて顔を上げると姫様のほほ笑む表情が見えて、なんだか恥ずかしいのと頑張らないといけないと思うのと、少し困ってしまうのと様々な感情が混ざって少し作業の速さが遅くなってしまう気がした。 床に落ちているものをだいたい拾い終わると、ようやく足の踏み場が見えてきた。 「雑巾かけ……しようか?」 「お願いするわ」 今度はちゃんと敬語を外して話しかけることができた。 それでも頭の中で一瞬考えてからしか言葉に出せないので、少し間が開いてしまうのは勘弁してほしい。 雑巾を絞って床を拭く。 今まで誰も掃除をしてこなかったのかと思うくらい隅には埃がたまっていて、磨けば磨くほど床は元の輝きを取りもどしていく。 一体どうなっているんだ。この部屋の掃除は誰もしてこなかったのか? そこまで考えて、いやそんなことはないだろうと思い直した。 この宮殿には掃除人が何人もいる。みんなそれぞれ自分の持ち場を担当している。僕の持ち場は宮殿1階の廊下だ。 もちろん姫様の部屋担当もいるし、2階の廊下担当もいるはずだ。 しかし、僕たち掃除人はお互い顔を合わせたことはない。 基本的に自分の仕事が終われば後は街に出たり、部屋にいたりするからだ。掃除人同士が話す必要なんてないし、言われた仕事だけをしていればいいのだ。 余計なことはする必要はない……。 のだが、この日の僕は少し違った。 姫様と少し仲良くなって心の距離が縮まった、と思ってしまったのだろうか。それとも、いつもと違う場所の掃除ができて、テンションが上がっていたのだろうか。 「姫様の部屋の掃除担当はだれなんです?」 気が付けばこんな言葉が口から出ていた。 その瞬間、部屋の中の空気が変わった。 今までそよそよと吹き込んでいた風はぴたりと止み、桜色のカーテンは静かに動きを止めた。 部屋の中に広がっていた花の香りは一瞬、すっぱい匂いに変わった気がした。 「マルコス」 今まで聞いたことのないくらい低い声だった。 姫様の眉間にはしわがよっていて、怒っていることは明らかだった。 「はい」 僕は一瞬にして後悔した。 10秒前の自分にバカと言いたくなった。 背筋をぐいと伸ばして、姫様を見る。 目は瞬きをやめ眼球が乾くんじゃないかというくらい大きく見開き、肩で呼吸をする。 そうでもしなければ倒れてしまうんじゃないかと思うほど、重い空気だった。 「敬語になってるわ」 「あ……」 思ってもいなかった言葉が返ってきて、拍子抜けした。そこ?と思った。言い返せるわけではないのだが。 「言い直して」 「え?」 「いいから、言い直して!」 「でも、僕……姫様に…失礼なことを……」 「言い直して!」 「姫様の……掃除担当は……だれ……なの……?」 これだけを言うのに口の中はからっからに乾いて、冷や汗が止まらない。 瞬きをしていないので涙がでてきそうだ。 呼吸の仕方も忘れてしまったんじゃないかというくらいに息苦しい。 今まで、どうやって呼吸していたんだっけ。 はくはくと浅い呼吸を繰り返す。 このままこの空気が続いたら倒れると思った。 何か言って欲しいと思った。 「マルコス、敬語はやめてっていったでしょ?仲良くやりましょう?」 姫様は優しくそう言った。 その瞬間、肩の力がどっと抜けて思わず床に倒れそうになった。 腕で一生懸命体を支えてそれを防ぐ。 額からは汗が流れてきて、床にぽとりと落ちた。 「どうしたの?大丈夫?」 「だ……大丈夫……」 慌てて雑巾で拭いてごまかした。 そのまま顔を上げるのが怖くて僕は床を見つめたまま、ごしごしと雑巾を動かす。 同じ場所ばかり拭いていて、その場から動けなかった。 呼吸を再開したことで心臓はどくどくと激しい音を立てて鳴る。 全身の血管に血が勢いよく動いているのがよくわかった。 早くこの場から去りたいと思ったが、姫様が僕のことを変わらず見つめているのに気が付いて、立ち上がることができなかった。 なんとかずりずりと這いながら、少しづつ場所を移動していく。 できるだけ拭き残しがないように。それでも姫様から距離を取りながら。 できるだけ部屋の扉に向かって僕は進んだ。 「あ、そういえば」 姫様が思い出したように言ったその声に肩がびくりと反応する。 「この箱、捨てておいて」 おそるおそる姫様の方へ視線を向ける。 姫様が指さした方向はベッドのすぐ下にある箱だった。 綺麗に装飾された木彫りの箱だった。 「中身も入ってるけど、全部捨てていいから」 「わか……った」 僕はゆっくりと立ち上がる。ずっと座っていたからか、膝ががくがくと震えてうまく歩けなかった。 姫様はそれを見ると 「ずっとお仕事させてごめんなさいね。今日はもう綺麗になったからいいわ。また今度続きをしてちょうだい」 と笑った。 ようやく解放された、内心ほっとする気持ちをおさえつつ、 「ゴミと箱は捨てておく……ね」 最後だと思って、姫様の顔を見た。 「うん、お願い」 姫様の顔はとてもにこやかだった。 気が付けば、部屋の中にはまた涼しい風が吹きこみ、カーテンはゆらゆらと揺れていた。 「マルコスのおかげで、とってもきれいになったわ」 姫様が見回す視線をたどると、確かに床にはゴミ一つ落ちていない。 磨かれた床はぴかぴかと輝き、部屋全体が明るくなったような気がした。 「それはよかった」 思わず僕も笑顔になった。 掃除のこの瞬間は何ごとにも代えがたい。
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