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ある女優の崖っぷち
どうして人は人をこんなに簡単に嘲笑うの?もう一度返り咲きたいという思いも虚しく、今の私はみんなのストレス解消の道具、道化、どうせ…。私なんてもう…。
思い出を汚さないで?青春を返せ?
その思い出や青春を彩ったのは私が主演した映画。私が当時の本当の思いを綴って何が悪いの?
久しぶりに会う監督は何も変わっていなかった。
「どうだ?物語を作るって難しいだろ?」
私の本を片手にサインを求めてきた。
「監督、冗談はやめてくださいよ。本当はサインなんて欲しくないくせに」
それでも、私は監督の悪ふざけに乗ってサインペンで見開きにサインを書く。インクの匂いが売り出し始めた新人女優だった頃を思い出させる。あの頃は一枚一枚サインも直筆で書いていた。今はマネージャー任せで滅多に自分では書かないから、少し歪んだサインになってしまった。
「サイン下手になったな、あの頃は撮影の合間に書いてたのに」
「色々ありましたからね」
「色々」に少し力を込めて台詞のように意味深に言うと、
「プロとしてこっちも本の中身に色々言いたいことはある。緩急つけろとか、波を作れとか。でもさ、きっちり自分で書き上げた根性は認めるし、編集の腕がいい。清香(さやか)の魅力を最大限活かしてるな」
「でも酷評されて、私の時代も終わったなって」
「言いたい奴には言わせておけばいい。自叙伝の中に俺を出したいって、肖像権の話を持って来たときさ。一分一厘の迷いもなかった。足掻き続けてるのは俺も同じだから」
「足掻き続けてる?今や国際的にも認められた監督が?」
「いつもいつもホームラン級の映画が撮れる訳じゃない。水から上は白鳥のように優雅に見えて、水面下で必死に足をバタつかせて泳いでるから」
「最新作の『ホワイト・スワン』の興業収入、苦戦してるみたいですね。肖像権の許可を出したのは、落ち目の私への憐れみと次の映画で返り咲きたいから?」
怒らせようと挑発してみたのに、
「そうだよ…。俺だって下から雨後の筍みたく、若い奴らがどんどん出てきて苦しい。企画もだんだん通らなくなってジリ貧で…」
監督は会員制バーのカウンターに突っ伏して、拳を強く握りしめてカウンターを強く三度も叩いた。バーテンダーは空気に徹してくれているが、顔が少しひきつっているのは隠せない。
たぶん、監督は突っ伏して泣いている。長年の勘でそれが分かる。私は監督の肩を撫でて抱き寄せる。いつもいつも監督の作品では姉御肌な役ばかり演じてきた。もう役なのか自分の素なのか分からない。監督は、
「辞めるなよ…清香。俺も辞めないから」
首を絞められた白鳥が絞り出したような声で、山中監督は途切れ途切れに呟いた。
「辞めるほどヤワな女じゃない、知ってるでしょ?」
監督は私の腕の中でまるで乙女のようにすすり泣いている。昔からこういう人だった。母性本能をくすぐって女を落とすタイプ。
「知ってるよ、清香は芯が強いから」
まだ泣きながら甘えてくるこの年上の男を、心底かわいらしいと思ってしまう自分に、少しだけ嫌気が差した。
そして何年ぶりかは忘れたけれど二人で一夜を過ごした。帰り際に週刊誌の記者の気配を感じて、ああ、これを記事にしてまた叩く気かと妙に冷静な自分がいた。
理想とかけ離れたら簡単に、裏切られたと捨て台詞を吐いてファンは去っていく。木崎清香は頼れる姉御肌で、竹を割ったような真っ直ぐな性格の女優として親しまれてきた。清香にひっかけて『サヤリスト』という清香のファンの呼び方まで流行した。
ファンの人ごみなんて一瞬の幻で私はいつも独りだった。騒がれ持て囃され、一挙手一投足に注目され、永遠に輝き続けることを期待された。試写会の前夜はいつも、誰一人お客さんが入らない映画館の夢を見た。ドラマの視聴率が悪いと寝つけなくて、台本を全部暗記するほど病的に読み込んだ。
出待ちの人ごみはうるさい。うっとおしいと感じつつも、女優としてのキャリアが長くなって、出待ちの人ごみの人数が減っていくと焦りや不安を感じた。
期待という名のプレッシャーに押し潰されそうになっても、誰も助けてくれなかった。たった一人落ち目の私を助けてくれたのは、駆け出しの私を見つけて育て上げてくれた映画監督。監督を好きになった昔の恋愛を小説にしただけなのに、「売れるための策略で監督に近づいた」、「今さら過去の恋愛の自慢話をしてる」、週刊誌、テレビ、ネットあらゆる手段で叩かれた。
国内の賞を総ナメにしても海外の映画祭で私の演技は通用しなかった。私よりずっと年下の女優、坂下愛子を主演で起用した映画で、海外にも名を知られるようになった監督。レッドカーペットを二人で歩く姿がテレビや新聞で報じられた。悔しいけれど坂下愛子の演技は鬼気迫る切実さがあった。彼女は努力を惜しまない天才で勝てる隙が見当たらなかった。
トロフィーを片手に、主演女優と一緒に海外のメディアから質問を受ける監督を見て、私は自分の時代の終焉を意識した。トドメを刺されたと感じたのは坂下愛子と監督が結婚したと報道されたときだった。初めて演じる側ではなくて、物語を作る側に回ってみたくなった。監督と似たような経験をしてみたかった。もう届かない愛する人がいる、物語を作る世界に自分も身を置いてみたかった。
だから今まで断り続けてきた自叙伝出版の話を引き受けた。落ち目と罵られようと、私生活の切り売りだと批判されようと、私は自分の女優人生を自分の手で振り返りたい。役ではない自分自身の話を書きたかった。売れなくなった私で最後の一稼ぎが出来るかもしれないと、事務所の社長は止めもしない。
書くことは意外と難しくて、何度も投げたしたい衝動に駆られた。いっそのこと監督と仕事で縁がある、脚本家や原作小説家に原案だけ出して書くことを丸投げしたいと思った。
でも、私は自分がやりたいといった仕事を投げ出したことがない。それが唯一のプライドだった。事務所と仕事の中身について衝突したこともあった。
それでも、一度引き受けた仕事は何があってもやり遂げてきた。売れてる頃も売れなくなっても、仕事に穴を開けない所だけは事務所から信頼されてきた。
事務所がセッティングした本の発売と、監督との不倫密会報道に対する釈明の記者会見。
「奥様で女優の坂下愛子さんに申し訳ないとは思わないんですか?」
女性週刊誌の記者の質問が飛ぶ。
「坂下愛子さんは…。私と違って国際映画祭で賞を取るような作品で主演でした。私は国内止まりで実力で勝てません。だから羨ましくて羨ましくて、監督と会うことはいけないことだとは思っていました。でも、坂下愛子さんへの嫉妬を抑えきれませんでした」
私はもう演じるのではなく、ありのままの心境を語っていた。
「演技で勝てないからって不倫で嫌がらせですか?」
「ファンの期待を裏切ったとは思わないんですか?」
「女優としてのプライドはないんですか?」
次々と正義というラベルのついた、弾丸のような質問が飛んでくる。記者会見に集まったマスコミ関係者の人ごみが、なぜか心地よい。これだけの人数が集まった会見は何年、いや十何年ぶりだろう?フラッシュが炊かれる度に私は、女優としての木崎清香ではなく、心を剥き出しにして、服も脱ぎ捨てた裸でカメラの前でポージングしているような感覚に陥っていた。
「山中監督から誘ったんですか?木崎さんから誘ったんですか?」
記者からかなりシビアな質問が来た。私ははっきりと答える。
「私からです。泥酔して前後不覚の監督を私が誘いました、申し訳ありません」
フラッシュの嵐が一層激しくなる。密会を撮られても事務所は揉み消してくれない。だから腹を括って全部泥を被る覚悟をした。私は監督より強いから。叩かれても這い上がる、面の皮の厚さがある。監督は天才肌でビックマウスの癖に、信じられないほど打たれ弱い。それに…愛した男の一人くらい、守れなかったら女じゃない。
自叙伝小説だけでも袋叩きだった所に、現在進行形の不倫騒動が加わり大炎上した。仕事を干され、散々な目にあった。
3年後…。私は主演しか受けないというプライドを捨てて、脇役として再び映画やドラマの世界で返り咲いた。あのときどんなに批判されても自分の女優人生を一度総括して良かった。主演しか受けない女優。自分の思い上がりを捨てるために、あの自叙伝はどうしても必要だった。山中監督もスランプを脱して映画を撮り続けている。もう二人で会うことはない。でも、この業界を辞めないという約束はお互いに守り続けている。
滑稽に見えるかもね?
この世界に身を置くと
戻れなくなり 迷い込む
光の渦に絡め取られ
強い力に引き寄せられる
より 輝く方へ輝く方へ
光を求めて泥を啜る
人ごみの中で向けられる
カメラ 歓声 野次馬の顔
無意識に数えて安心する
私はまだ演じられる
だって私は女優だから
サングラスの奥
豹のような鋭い目で
まだ終われない、終わらない
届かない太陽を掴むように
手を伸ばして独りで誓う
辞めてたまるかよ
まだ終われない、終わらせない
(完)
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