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ドアの向こうの景色は、俺の想像していたものではなかった。
振り返った愛花の瞳は、悲しみの涙に歪んでいた。
彼女は椅子の上に立って――天井から吊るした縄に、首を掛ける直前だったのだ。
「お父、さん……」
「何やってるんだ……早く其処から降りなさい」
ところが彼女は、悲しそうな表情のまま、首を横に振った。
「止めないで……ごめんなさい、お父さん」
彼女の重心が、ゆっくり前に傾いていく。俺は考えるより先に、弾かれるように体が動いていた。
彼女の体を羽交い締めにし、抵抗されつつも椅子から引き摺り下ろした。それから天井の縄を引き千切って、彼女を見下ろした。
愛花は、蹲って泣きじゃくっていた。
「……どうして」
悲しく響く泣き声の中で、俺が発せた言葉はそれだけだった。
愛花は泣き尽くした後、繰り返す嗚咽の中、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……拓也……もう……私とは……」
どうやら、ボーイフレンドにふられてしまったらしい。俺は彼女に寄り添って、力一杯抱き締めてやった。
「だから……私……」
「そうか、分かった。もう良い、もう良いよ……」
だらんと下がった彼女の手を、俺はそっと握り締める。
あの冷たさはもうなく、ほんのりとした温もりが、その手にはあった。それがどれだけ俺をほっとさせた事か。
人を殺したい衝動に駆られている時、俺が握った手はひんやりと冷たさを帯びる。でも、その “人” が、必ずしも ”他人” とは限らない。 ”自分自身” を殺したい時も、その人の手は冷たくなる――。
俺は漸くその事に気が付いた。
けれど今は、娘が自殺を思いとどまってくれた事に、ただただ安堵するばかりだった。
暫く愛花を抱き締めて、背中を優しく叩いてやると、彼女は段々と落ち着いていき、やがて小さな寝息を立て始めた。俺の胸の中に、ゆっくりその身を預けていく。
俺は彼女を抱きかかえると、そっと床に寝かせてやった。その寝顔を見て、何だか微笑ましくなる。
「……お前みたいな子供に、命を絶つ覚悟なんて必要ないんだよ」
俺は布団を出してやろうと、押入れを開けた。
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