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何かの延長線上で
夕方から湾岸線を渡って六甲辺りまで車を走らせたり、ついでに飯を食ったりした。練習も兼ねてと言って、先輩は俺にハンドルを任せてくれたが、俺は殆ど上の空だった。
聞きたいことが山ほどあった。何から訊けば良いのかもわからなかった。だが、面と向かって訊くのは気が咎めた。先輩は何を言うのも後ろめたそうで、これ以上問い詰めることは出来ない気がした。だけど、このまま何も聞かずにそっとしておける気もしなかった。先輩だって、隠したくて隠しているわけではないんだろう。訊けば嘘は言わないだろうことはわかる。だけど、昼間に自分の腕を焼いて見せた先輩を見て、まだ先輩には話したくないことがあるんだろうと思った。
俺はといえば、急激に容量を増したアンジーと吸血鬼の妄想にさっさと終わりを付けたかった。昨日まではそれほどではなかった興味が、頭の中で連鎖的に破裂し続けるのを感じていた。どうやったら穏便に、どういう方向から、そして先輩の気持ちを刳らずに訊き出すことができるだろうか。そんなことを取り留めもなく考えていた。
俺は暗闇の中で寝返りを打った。明日は仕事だからと早々に布団に入ったが、なかなか寝付けなかった。それは先輩も同じようだった。
「…先輩、もう寝てます?」
「…何?」
先輩が囁いた。誰の耳があるわけでもないのに声を潜めて返すのが、なんだか妙に思えた。
「…前に言ってた俺達の…その…『清い関係』ってやっぱ、俺に…感染ったりとか、そういう心配があるってことですか?」
先輩が横になったまま小さく身動ぎする気配がして、また囁き声が帰ってきた。
「…そうかも知れない」
「それだけじゃないけど、それもあるね」
俺はいつものようにベッド、先輩は床に敷いた布団に横になっていた。俺の寝ている位置からは先輩の姿は見えなかった。だけど、なんとなく顔が見えない方が訊きやすい気がした。
「…先輩の首の後にある痕なんですけど、あ…髪切る時に見えたんですけど…あれが感染した時のものなんですか?」
「…ぅん、そうかもね」
「やっぱり噛まれたっていうか、そういう痕なんですか?」
「そうだね」
「噛まれた後、何かに感染したって自覚はありました?」
「・・・・・・・」
長い沈黙があった。
その後、溜め息に混じって『そうだね、あった…』と声がした。
「瞬間から、見える世界が何もかも変わったよ。だから判った。その時は、自分が死んでいく感覚なんだと思ったけれど…」
そのまま先輩の言葉は途切れた。目を開けている気配がしていた。眠ってしまった訳じゃないらしい。だが、話し続ける気もないようだった。
「…先輩、なんで別人だと判ってて、俺の後を付けたりしたんですか?」
先輩は何も答えなかった。ただ、潜めるような小さな息遣いだけが、暗闇の中に帯のように折り重なって積もっていく気がした。重い空気だっった。
「……アンジーさんのこと、好きだったんですか?」
「…そうだね、好きだったかも知れない」
長い間の後、先輩は言った。
「俺、気にしませんよ」
俺が言うと、少しだけ笑う気配がした。
「ユキちゃんは優しいね」
「別に。考えたって仕様がないことです、だけど知っておきたいって思うんです。先輩のこと」
「やっぱり、気になります。無理に聞き出したいわけではないんです、ただ、余計な想像を巡らすくらいなら聞けることは訊きたいって。こういうの、煩わしいですか?」
先輩は答えなかった。だがしばらくして、ポツポツと語り始めた。
「… 彼とは、こうなるまでは、本当になんでもなかったんだ」
「気が合う友達?親友って程でもなかったのかも知れないけど…店ではフォローし合う仲だったし、二人でよく遊びにも行ってた。信頼してたんだよ。僕は浅い付き合いしか望んでいなかったけど、もっとちゃんと関係を築いておけば良かった」
「後から思えばね、僕は彼の僕を見る目を本当は知っていて、それでいて無視し続けていたんだと思う。彼の好意を利用できるだけ利用してね」
「彼もそう感じていたんだと思う、ずっと…多分、彼を失望させていたんじゃないかな。その所為で何かが壊れてしまった。その結果がこれなんだ」
「彼に罪悪感がある。訊きたいことが数え切れないくらいある。償いたい気持ちも、彼を恨む気持ちもある。どれも無理だとはわかってるけど、それでも時々考えてしまう。今、目の前に彼が現れたら…って」
「でもそれは、ユキちゃんとは違うよ?僕は、彼とユキちゃんを重ねて見たことはないよ。…言い訳にしか聞こえないかも知れないけれど」
「時々、僕は考えてしまう。何のために僕は…何のためのループなんだろうって。その切っ掛けを作った彼は、もう居ない。これは彼の望みだったのか、それとも何かの罰なのかなって…ユキちゃん的に言えば、『考えても仕様がないこと』なのにね」
正直、先輩の言うことが判るような判らないような、いや、全然判らなかった。何を知りたかったのかも、わからなくなり始めていた。先輩は言い訳にしか聞こえないだろうと言うけれど、実際のところ、そうだった。だが俺がそれを気に病むかと言えば、そうでもなかった。どっちにしたって、過去のことだった。俺は言うべき言葉も思い当たらないまま、闇の中で瞬きばかり繰り返していた。断続的に擦り寄ってくる睡魔は、それほど強いものではなかった。
ただ、ぼんやりと怠い気分に浸りながら、先輩が下に居るであろう辺りの空間を眺めていた。長い間があった。そろそろ眠ろうか、そんなことを思い始めた時、また先輩の声がした。
「ユキちゃん、いずれ言うことになると思うから、今、言ってしまうね」
「ユキちゃんの聞きたいことじゃないと思う。だけど、ユキちゃんは近い内に気付いてしまうだろうから…」
そう言って、先輩は一呼吸置くと、思い切ったように言った。
「無理矢理だった」
細やかな声だったが、聞いた瞬間、ズシンと俺の腹に響いた。思わず体を起こしそうになったのを、俺はなんとか堪えた。顔まで一気に血が上り、微かに震えが走ると、鼓動が早くなるのがわかった。血管を流れる血の音が、耳の中で殊更大きく反響して聞こえた。俺は無言のまま息を潜めた。
「抵抗しきれなかった。襲われてる間でさえ、僕はまだ彼を信じる気持ちが捨てられずにいたから」
「裏切られたと思ったし、許せないとも思ったけれど、今、彼と同じ立場になってみると判る気がする。あれは、不可抗力だったって」
「居合わせてしまったことが唯一のこの不幸の元凶だったんだ。そうでなければ、彼も死ぬことはなかったし、僕もこうはならなかった…」
長い沈黙があった。
俺は、浅く息をしながら、先輩が居る辺りの闇を見つめた。
「嫌なこと聞かせてごめんね。おやすみ」
先輩は遠慮がちに呟くと、小さく身動ぎした。そのまま深く布団に体を預けるような気配。眠ろうとしているようだった。俺は何も言えなかった。何かを感じたり、思えるまでには、まだ時間がかかりそうだった。今夜聞いたことについて、俺は何も発するべきではないと思った。明日の朝、先輩が何事もなかったように俺と顔を合わせるためには、俺はいま聞いたことについて何も言うべきではないという気がしていた。
下手な同情を寄せるべきでない。そもそも同情なんか出来るわけがない。そんな簡単なものじゃないんだ。だが、先輩をこのままにはしておけないとも思った。先輩にはこれからも俺の尊敬する上司であり、先輩でいて欲しいと思ったから。
俺は寝そべったまま、息を潜めて、そろそろと腕を伸ばした。何か慰めになれることあったらと思ったが、手を伸ばすことくらいしか出来なかった。先輩が眠ってしまっていたらそれでも好い。ベッドの縁から手を翳すと、視界の外で先輩の冷たい指先が絡んくるのがわかった。俺が握り返すと、先輩も緩く握り返してきた。俺達は言葉もなく、そのまましばらく手をつなぎあっていた。固く冷たかった先輩の指先が、ほんのりと温まっていくのを感じて、俺は僅かながら安心した。
「…先輩、こんな時に言うの、なんなんですけど…『別れる』って言っちゃったの、取り消してもらっていいですか?」
俺が言うと、先輩はいつもの声で『うん』と言った。
「…よかった」
「本当にびっくりした。だって、誰かを追っかけるなんて、子供の頃の鬼ごっこ以来だったんじゃないかな?…結構ショックだったよ」
そう言って、先輩はクスクスと笑った。声から先輩がリラックスしているのが判った。
「お騒がせしました」
俺が態と畏まって言うと、先輩は握った俺の掌を小さく振った。
「また、今日から一週間だね」
「…五日間ですよ」
「今日も泊まって好い?」
「好いですけど、今日は十二時消灯ですよ」
「うん、良いよ」
「ゲームも禁止です」
「あと、夜はラーメン食いたいです。めっちゃジャンクなやつ。明後日はニンニクの臭いプンプンさせて出社してやる…」
『おやすみなさい』は、言わなかった気がする。
取り留めのない話をしながら、俺は眠りに落ちていった。
「ユキちゃん、あともう一つだけ、言わなきゃいけないことがあるんだ」
「…でも、今、それを言ってしまったら、ユキちゃんを縛ってしまうことになる気がするから、次の機会にするね。また、その時が来たらね…おやすみ…」
その日、俺は夢を見た。
そこでは怪しカッコいいマント姿の先輩が『古い顔』を『新しい顔』に取り替えているところだった。
自社工場の裏手に畑があって、見渡す限りの地平線の彼方まで、『先輩の新しい顔』がパイナップルのような体裁で無制限に地面から生えていた。
俺は先輩に訊いた。
『先輩、”古い顔”はどうするんですか?』
新しい顔に取り替えたばかりの先輩は、いつものように微笑みながら、
『そうだね、この廃棄をどう減らしていくかが、今後は重要になってくるだろうね』と言った。
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