『 ふりだし 』に戻る

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 あれから一週間。 俺達はこの一年繰り返してきたのと全く変わらない、いつもと同じ日を過ごした。先輩の俺に対する態度も全く変わらないし、俺もこれといって何も変わっていない。  因みにどうでもいいが、あれから『指切りげんまん』について調べた。『ゲンマン』とは『拳万』と書いて、一万発の鉄拳制裁を意味する言葉だった。あの呪文は、約束を破ったら、指を切り落とすだけでは事足りず、一万発の鉄拳制裁のうえ、針を千本飲ませるという、今時のヤクザも真っ青のとんでもないものだった。  だが、よくよく思い起こせば、俺はなにを約束したんだろう?と思う。 大体、そもそも『俺と先輩が付き合う』ってなんだと問われれば、俺だって答えられない。これが相手が女の子だったら話は早いんだが、俺達は当然男同士で、別に男が恋愛対象ってわけでもない。  思い返せば、現在置かれている環境に(なら)って単純にそういうシチュエーションに慣らされてしまっているのかと思える節もある。今、俺たちが雇われている職場の雰囲気。そう、男同士で『キャッキャウフフ』と戯れている絵面だ。それは実際の所、その場に身を置いてみると、正直に言って楽しい。  故に俺は、どう受け止めるべきか迷っていた。迷っていたと言ったって、四六時中考えていたわけでもない。ただ黙って一週間、横目で先輩の動向を伺っていただけにすぎない。朝、顔を合わせては『ああ、いつもの先輩だ』と安堵し、午後には、先週と比べて何の変化も見られないことに僅か拍子抜けしながら先輩に付いて仕事をこなし、夜は『もしかして俺は肩透かしってヤツを食らっているのか?』と自問した。やり取りは単なる気まぐれか、その場限りの冗談だったのか、俺は先輩に弄ばれているのか、いや、それならそれでいい。  だって考えても見ろ。本気で『付き合ってる』なんて大義の元での→手繋ぎ出社。チーム逸崎(いつざき)のペアルック、腕を組んで、得意先をまわることを想像してみれば、むしろ何もない今の状態の方が、よっぽどいい。  日頃の先輩は、仕事が出来て、寛大で、頼もしく、思いやりに溢れる、俺にとって完璧理想の上司だ。だが反面、先輩には、俺の予想を上回る奇行を発揮する瞬間があるから気が抜けない。つまり先輩がその気になれば、『手繋ぎ出社』くらい朝飯前にありえるということだ。  だが今の所、先輩はいつも通りの『頼れる上司先輩』だ。  肩透かし…?さっき、俺、『肩透かし』って考えたよな?  俺は思考を少しばかり巻き戻した。 俺は先輩に何を期待しているんだ?いや、期待なんかしてない。少なくとも今俺が考えているこの状況については、今後の進展なんてモノは期待していない。  先輩が『僕達で付き合っちゃう?』と言った時、俺はナニを考えていたかと言うと…今度は記憶を手繰り寄せた。 そうだった、何も考えていなかった。『彼女が居なくたって今の方が楽しい』だとか、『先輩といると、気分的に楽っていうか…』フォローすることに躍起になって、そんなことを口走ってた気がする。でもって先輩がそれを、にこにこ聞いていた。それが、この結果だ。  あの時、俺が先輩に言ったことは嘘じゃない。 実際、先輩は俺の上司ではあるが、上司だからといって特別気を遣う人でもなかった。大体これだけ毎日密着してれば、そんな遠慮なんか吹っ飛ぶ。それだけ一緒にいても全然不快じゃない。自分の姉弟でさえ毎日顔を合わせるだけで無性に腹が立ってくるというこの俺が、先輩に対してだけは、不思議とそういった負の感情が湧き上がってこない。それくらい先輩といるのは楽だった。それに加えて、先輩とは趣味も合うし、尊敬できるし、なにより一緒にいて楽しい。  だから俺は思ったんだ。 この居心地の良さが続いて欲しいと。そして先輩の誘いに応じることで、それが少しでも長続きするのなら、細かいことなんかどうだっていい、と。  それで俺は躊躇うことなく『イエス』と言った。 勿論、ノリ半分で答えたことは否定しない。いつもの職場の『キャッキャウフフ 』が、プライベートにまで伝染してしまっていたことも認める。それでもこの後、何度聞かれても、俺はあの場面では、やはり『イエス』と言う以外の選択肢はないだろうと思う。そう、居心地の良い今の関係がずっと続いて欲しいだけなんだ。だから俺はあの時『先輩とこの先どうなりたい』なんて、考えてもいなかった。それは今だって『そうだ』って言える気がしていた。
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