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喰われるか、喰われるか?
先輩の話は、何一つわからなかった。
だが、ひとつだけ納得出来たことがある。
「…あぁ…先輩、見た目、若いっすもんね…」
順当に年取っていたとしてもまだ二十代だが、先輩のつるりとした顔を見ていると、確かに二十歳前後と言われれば納得だ。だがこんな現実離れした話を簡単に納得してしまって良いんだろうか。
「そうなんだ。僕からすると、ずっとループしながら重なって行くような感じなんだけど、ユキちゃんの世界からみると、僕だけ時間が止まっているように見える」
「はぁ…」
わかるような、わからないような。
「…っていうか、一体なんでそんなことに…っていうか、何のためにそんな…」
「それがわかれば良いんだけどね」
先輩は、溜め息を吐いた。
「…その、アンジーって人は、事故?事故死って、その、…いや、やっぱりいいです」
俺は、言いかけて止めた。
簡単に言えることなら、先輩なら多分、既に話しているだろう気がした。
「…何も聞いてなかったんですね?」
「全くね」
なんと言ったら良いのかわからなかった。聞いた話も全くわからなかった。
「……でも、それって、よくわかんないんですけど、単純になんとなく知ってる吸血鬼とか言うより厄介じゃないですか。っていうか、吸血鬼って、思ってた以上にハイパーな環境下にあるんですね…あれ?俺、何言ってんだろ?なんか、聞いても全然わかんなかったです」
「仕方ないよ、当の僕だってわかってないんだから。でも今まで黙ってて、ごめんね」
先輩は恥ずかしそうに笑った。
「…いや、いいです。そんなの普通、言えないですよ」
「だけど言うべきだった。でも、まだ誰にも言ったことがなかったから、正直、どう説明していいかもわからないし、信じてもらえるとも思えなかったし」
「社長には言ってないんですか?」
「うん」 先輩は頷いた。
「家族…先輩って、家族は?そう言えば聞いたことなかったですね」
「家族は居るよ。一緒には住んでないけど」
「そうなんっすか。なんか失礼なんですけど、びっくりした」
家族がいると聞いて、俺はちょっとホッとした。これまで先輩から家族の話なんて出たことがなかったから、なんとなく居ない気さえしてた。
「うん、でもまだ誰にも話してない…ユキちゃんが初めてだよ」
不謹慎なのはわかってる。
だが『俺が初めて』と言われただけで、微妙にテンションが上ってしまった。まだ誰にも知られていない、俺だけが知っている先輩の秘密。そう考えるだけで、胸の内側が擽られるような、変な感じだった。
「…あの、専務は…?」
不意に過ぎった疑問を、俺は口に出した。
途端、先輩が吹き出した。
「あっちゃんは、大丈夫。あれが標準仕様の普通の人だよ」
「ぁ、ああ…そうなんですか。なんか専務ってぽいなぁって…なんか、専務が吸血鬼って言われたら、すごく納得してしまいそうじゃないですか」
「そうなんだよね、彼っていろいろ超越してるから」
「完璧っていうか、ぶっ飛んでるっていうか、パワーの桁が違うというか…」
「うん、僕よりは、ずっと跳び越えてる」
「なんか次元違いますよね」
俺も先輩も、一緒に声を出して笑った。
何も解決したわけでもなかったのに、この時俺は、どことなく気分が晴れる気がしていた。
「…それより、何か食べよう?」
「俺、作ります」
俺が一昨日、必死で考えた『先輩とお別れする作戦』は、所謂は"藁の家"だった。先輩の予想外のカムアウトで、あっけなく吹き飛んでしまった。今となっては、どうでもいい。先輩から俺が聞かされた内容は俺のキャパを遥かに超え、俺の頭は機能停止状態だ。
先輩が本当に吸血鬼なのかどうかとか、昨日俺が切った先輩の髪のこととか、何が現実なのかとか、これからどう対処すべきなのかとか。何をすべきとか、何をしたいとか、そういうものが全く浮かんでこなかった。ただ、ボンヤリと、だが『俺はこのままでいいんだ』という奇妙な確信だけがあった。正常性バイアスってのは、こういうことを言んだろうな。
昨日から仕込んでおいたフレンチトーストは、フワッフワのトロトロだ。牛乳の代わりに豆乳を使うと、甘みが強く出るから砂糖は控えめ。バターを焦がす一歩手前までよく熱して、表面だけ軽く焼色をつけ、後は余熱で中まで温めて、皿に出す直前にもう一度、さっと表面だけ焼き直す感じで。粉砂糖を降って、オレンジのコンポートと蜂蜜を添えて。我ながら完璧だ。
「ユキちゃん、すごく美味しい…バターの塩気と、全体の甘みのバランスが良くて、それにオレンジの酸味と甘みが合うね、このオレンジも美味しいね」
「よかったです」
テーブルの向こうで、髪をフサフサさせながら、いつも通りの先輩がにっこり笑った。
「先輩は、例えば…俺見て、美味そうとか、不味そうとか思うことあります?吸血鬼的にw」
なんとなく聞いてみたくなった。先輩は笑みを浮かべたまま、目を細めて、態と値踏みでもするように俺を見た。先輩の色の薄いヘーゼルの瞳が、ピタッと俺に吸い付きでもするような錯覚を覚えた。
「ユキちゃんは、美味しそうだよ。大体、不味そうな人と付き合いたいなんて思わないよ」
さらっと、そういうことを言ってくる。先輩はこうやって、自然に好意を滲ませるのが巧いんだ。
「あ、でも本気で”食べる”って意味じゃないよ」
吸血鬼的に見て、食料的需要じゃなくて、他に何があるっていうんだろう。
「なんでですか?食べる気なくて、そう思います?」
「じゃ、ユキちゃんから見て、僕は?どっちだと思う?」
「…あ、」
俺は先輩を見た。目の前の先輩は、白くてツルっとしてて…食い物に喩えるなら、杏仁豆腐…とかww(笑)
「美味そうですね。食う気なくても、思いますね」
「でしょ?でも、そんなこと言う割には、ユキちゃん、昨日も先にベッドに入って、ぐーぐー寝てたよね、吸血鬼なんて話を聞いた後なのに。襲われるかもとか思わない?」
「それはないですよ。先輩が襲う気なら、もっと前にやってるだろうし。信用してます」
俺がそう言うと、先輩は『そうなんだ』と呟いて、照れたように俯いた。つまんだフォークの先で、皿の上に残った蜂蜜をつついて弄ぶ。無意識にやっているんだろうけれど、先輩は、時々、こういう妙に可愛い仕草をする。最初の頃は、変に思っていたんだが、慣れてくると可愛く見えてしまうから厄介だ。常々思っていたことだが、こういうところを見てしまうと、やっぱり先輩は、乙男だと思う。俺が知っている女、姉、元彼女、オカンなんかより、ずっと乙女ちっくだ。
「美味そうだから『付き合う』なんですか?」
「…そういうわけじゃないけど」
「でも、なんか不思議です。俺、本当に普通じゃないですか。大体、俺のどこがいいのかなって思います」
「どこ?ぅーん」
先輩は、ようやくフォークを置くと、考えるような素振りをした。
「料理上手なところ。真面目なところ…付き合いがいいところとか…正直で率直なところとか…いろんなことに寛大だね。素直だし…」
「ベース弾いてるところはカッコイイね」
「気配り上手だよね…それから…」
「ああ、もういいです…」
恥ずかしくなってきた。
「あと…顔?…って、僕は、これ女の子に言われたら、結構ショックなんだけど…」
ああ、わかる。元彼女もよく言っていた。『(俺の)顔が好き』だって。
そう言われたって、どうしようもないのにな。実際、俺も聞き流していた。本当のところ、俺の顔は何の特徴もないから、不思議ではあったけど。
「ぁあ、わかります」
「言われると、ガックリくるよね?」と言って、先輩はまた笑った。
「相手に喜んでもらおうって、頑張って、めいっぱい気を回して、あれこれプラン立てて工夫してお膳立てしておもてなしして…その結果が『顔が好き』だった時の、脱力感ww」
「あー、なんか想像つきました(笑)」
「そうなんだ。『僕のこれまでの努力は一体何だったの?』っていうね」
「ぅんうん、」
先輩は、気配りの人だからな。日頃から『気を遣わなくていいから楽』なんて言ってる俺にさえ、こんなに至れり尽くせりなのに、この先輩に全力でエスコートされた女の子は、さぞかし気持ちが良かっただろう。前職”ホスト“だったから、それが当たり前なのかも知れない。先輩がどれくらいの数のどんな女の子達に、そんな風に接してきたのか知らないが、それに俺は先輩にそんなこと望んでもいないけど、それでもその女の子達がちょっと羨ましくなった。
「でも、勿論、全部好きだけど、でもユキちゃんの顔は好きだよ。顔って言うより、全体の空気っていうか、雰囲気かな?」
「面白いし、楽しいし、一緒に居て気が休まる。それに癒やされる」
「先輩、俺のこと、仔山羊だと思ってますもんね」
なんだか褒められすぎて気恥ずかしくなって、俺は常々言ってみたかった嫌味を言ってみた。
先輩はちょっと驚いた顔をした。
「…え?」
ほら、図星だ。
「知ってますよ。先輩。俺のこと『アルプスの少女ハイジ』に出てくる子山羊だと思ってるでしょ?」
『…それは』と、先輩は口籠った。
「先輩が俺を呼ぶ時のイントネーションが一緒なんですよね。毎朝アニメ見てるの知ってるし」
「それはそうだけど。それは可愛いなって思ってたから…」
「どこが似てるんですか?俺、山羊っぽいっすか?」
「ずっと付いてくるところがね…」
「それは仕事だからじゃないですかっ!!」
「そうだけど!」
先輩は、声を立てて笑い出した。
一頻り笑い終えると、まだ可笑しそうに顔を歪めながら、『でも、そういうとこが好き』と言った。
「?」
「ユキちゃんの、そういう勘の良いところ、飲み込みの早いところ。一緒に仕事してて、やり易いし、本当に助かってる」
「普段はあんまり主張しないけど、居て欲しい所にちゃんと居てくれるでしょ。自然に当たり前に、いつも隣に居てくれるところ。空気みたいにね」
「空気って言うと、聞こえが悪いかも知れないけど、でも、僕には無くてはならないものだよ」
「もう今ならユキちゃんが傍に居てくれなきゃ、きっと、息ができなくなっちゃうよ…」
心臓が握り込まれたように、きゅぅーっと縮む気がした。背中からピリピリと何が駆け上がって頭まで抜けた。総毛立つっていうのはこう言うことなのか。
先輩は『イケメン無罪』の法則によって守られている。
先輩自身は、そのことを知らない。普通は男に向かってこんな甘ったるい台詞を吐いたら、吐いた相手に殺されるか、側でうっかり聞いてしまったか、又聞きした第三者にタコ殴りにあう筈だ。普通の男なら、次の日の太陽はまともには拝めない。…先輩も吸血鬼だったら太陽は見れないか。少なくとも俺の生きている世界ではそうだ。だが先輩は、法則によって守られているから、何を言っても無罪だ。明日もこの調子で、甘ったるい台詞を吐きまくって、何の罪にも問われずに悠々と世間を渡っていく気なんだろう。なんて罪深い人なんだ。
俺は、固まったまま先輩を見た。
ヒタッと俺に付けて揺るがない、澄んだ瞳を。目が合ったと思った途端、そこから逸らせなくなってしまった。
『……瞬き…瞬き…』
じっと見つめてくる先輩の瞳。こうやって目を合わせてると、全然瞬きをしないんだ。
チョットコワインデスケド……マバタキ…メ ガ…カワク…
『…先輩………瞬き…してくレロ…ダサイ……』
俺は動けなくなったまま頭の中で願った。どれくらい見つめ合っていたのかわからない。ものの数分だったと思う。俺の願いが通じたのか、漸く先輩はゆっくりと瞼を閉じて、瞬きをした。
気付けば息をするのも忘れていたらしい。詰めていた息を一気に吐き出すと、心臓が激しく揺さぶられ、俺は不覚にも小さく身震いした。
これは先輩が”吸血鬼”だからなのか?俺が今味わったのは、蛇に睨まれた蛙の心境だったのだろうか。
それとも俺が先輩に…?
頭の中でさっき自分が辿った感覚を再度追った。腹の底がじんわりと暖かくなる気がした。
『…興奮してしまったからなのか?』
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