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さらに『ふりだし』にもどる
「今日は、どうしよう?」
朝飯の後、洗った皿をディッシュラックに移しながら先輩が言った。
「いい天気だからドライブでもする?」
俺の画策した『別れ話』は、どこかに行ってしまったみたいだ。だが、もうこの話はしたくない。この話を突き詰める気力は、俺には残っていなかった。
「昨日言ってた買い物、ついでにしちゃおうか?」
「なんか先輩に買ってきて貰ったのがいっぱいあるんで、今日はいいです」
これといって予定はなかった。今週末は、さすがに“いつも通りの過ごし方”を想定していたわけではなかったが、休日は大体いつもこんな感じだ。
「でも、出掛けるなら夕方からの方が良くないですか?」
すると、先輩は苦笑混じりに『そんなに気を遣わなくていいよ』と言った。
「今日はゴロゴロしたいです。読みかけの本もあるし…映画百円の日だし…」
「何かいいの、あるかな?」
「後で見てみましょう…、先輩、そういえば、専務のスマホ、持ってかなくて大丈夫なんですか?」
「キィ坊に連絡しといたよ。明日で好いって。充電しといてって言われちゃった」
俺達は何事もなかったように朝飯を食い終え、後片付けをした。
「あ、そうだ、ユキちゃん、昨日撮った画像、後で送って貰っていい?」
「昨日って…、髪切ったヤツですか?」
「うん、記念にww”てっぺんハゲ”のもね」
「あっちもですか?変なの…」
「だって、さっきまで怒ってたのに、いきなりセルフィー撮ったりして、なんか驚いたよ。ユキちゃん、時々、予想外なことするよね。そこが面白いんだけど…」
先輩は楽しそうにしている。
「いや、あれは滅多に見れない絵だなと思って。そんな変すか?」
「だって凄く怒ってたし」
「怒ってないです。びっくりしただけです。驚きましたよ、もう。社長になんて説明しようか本気で悩んだんですからね」
「ふふ、ごめんね。後々トリックだと思われないようにと思ってw」
折角の日曜日に男が二人で狭いアパートの部屋に篭ってるってのは、どう考えても良い絵面じゃないが、先輩は狭い部屋に一緒にいても、あまり圧迫感がない。言葉面から連想するむさ苦しさは殆ど皆無だ。
俺はベッドの端にクッションを積み上げて適当に寝転がり、この間から読みかけていた仲島敦の『山月記』を開いた。単なる気まぐれにしても、なんでこんなものを選んでしまったのかと自分でも思うが、俺は精神修行だと思って読破するつもりでいた。
「ホラー作品が充実してるね…ドキュメントもいいけど」
先輩はベッドに凭れて、タブレットで後で見る番組を物色している。俺は時々思い出したように先輩の手元を覗き込んだりしていた。
「そのペンギンのヤツは、どうっすか?」
「あ、ダーティジョブやってる…、ピンプマイライド、俺、結構好きです」
「面白そうだね。ユキちゃん見ちゃったの?」
「大分前に…内容は覚えてませんけどね。面白かったです」
俺は努めて手元の文面を追ったが、全く頭に入ってこない。あまりの意味不明さに脳味噌が悲鳴をあげていた。ふと、目を外して先輩を見ると、先輩は俺が送った昨日のセルフィーを眺めていた。
「…そういえば、二人だけで撮ったことってなかったね…」
そう呟いて、先輩は似たような画像の間を行きつ戻りつしていた。タブレットの画面には、俺と頭頂部が残念になった先輩。何故か睨みを利かす俺。先輩は、驚いたようにキョトンとしていた。その顔が、ちょっとだけ可愛いと思った。二十歳前後か。そりゃあそのくらいの歳なら、可愛くても仕方がないな。思わず笑いが洩れた。
「こうやって見ると、面白いっすね」
「うん…」
先輩は、そのまま長い間、画面を眺めていた。まるで後にいる俺のことなんか忘れたように。
「…そんなに似てますか?アンジーさんと」
あまりにも沈黙が長かった所為かもしれない。つい、口を滑らせてしまった。言ってしまった瞬間、あっ、と思ったが、遅かった。何を考えていたかといえば、何も考えていなかった。先輩が体を浮かせて、俺を振り返った。目がびっくりするほど大きく見開かれていて、その大きさに俺は驚いた。瞳の底まで覗けそうだった。
「何故そう思うの?」
先輩は言った。
ビンゴだ。
「何故って、それは…」
俺は、言ってしまったことを後悔した。訊くつもりなんかなかったのに、何故俺は口に出してしまったのだろう。先輩のガラス玉みたいなでっかい瞳が、俺を映しているのが見えた気がした。
「…俺は…、先輩のことは全部知ってるわけじゃないけど、自分のことは知ってます」
「ほら、俺の顔って、” 特徴がないのが特徴 ”ってくらい特徴がないじゃないですか…だから普段は人の目に止まるなんてこと、ないんです」
俺は途中までまだ誤魔化そうとしていた、が、諦めた。仮にうまく誤魔化せたとしても、所詮は誤魔化しだ。俺は開き直って言った。
「先輩、俺、憶えてるんですよ」
「前に、俺が働いてたコンビニで社長と一緒に遇う前に、俺、先輩に遇ってますよね?」
先輩は、何も言わなかった。
「思い出した、って方が正確なんですけど…梅田の地下で」
それは社長と遭遇した日のどれくらい前だったかはわからない。時期的には結構開いていた気もする。どんな状況で、何があって俺がそこに居たのかも、はっきりとは憶えていない。
その日、俺は帰宅ラッシュの波に揉まれながら、梅田の地下街を移動していた。地下鉄御堂筋線と谷町線、阪神梅田駅と阪神百貨店、阪急百貨店の出入り口が合わさる“ホワイティうめだ”のあそこだ。やたらと狭いくせに、買い物客と観光客、ただの行き過ぎる人、待ち合わせに居る奴等、帰路につく人々とが寄り合わさって、縦横無尽に行き交う“梅地下(梅田地下街)でも最もごった返す、どうしようもない場所、時間帯だった。その男は人混みから頭ひとつ抜けていたから、遠目にもよく見えた。人の波を縫うようにして、真っ直ぐにこちらに向かって来る。男が俺の前に辿り着く直前、目が合った。綺麗な顔の、若い男だった。男は一瞬、顔を強張らせて俺を凝視した。その時見た男の瞳。ものの数秒にも満たない瞬間に、まるで早送り映像のように激しく瞬き、何かを洗い出すかのように俺を見た。そして次の瞬間には、俺を躱して行き過ぎて行った。何も知らなかったあの時でさえ、俺は、そいつが俺を目指して来たんだと、気付いていた。だが、ただの人違いだったんだろうと思っただけで、その後は気に留めてもいなかった。
社長達と初めて遇った日、やっぱり俺は、先輩のことをどこかで見た気がしていた。だが、それさえも、どうでもよかった。遇っていたから何だっていうんだ。生活圏が似てるんだ。まあ、そんなこともあったかもしれない。俺の認識は、その程度だった。そこから、あの時の男が先輩だったという確信に至るまでには、そう日は掛からなかった。あれは先輩だった。俺たちはお互い知り合う以前に遇っている。そしてそれを俺は憶えていた。
あの日、あの人混みの中で、先輩は真っ直ぐに俺を目指して歩いて来た。自分で言うのも何だが、俺の顔は初見で遠目に見て目に留まるような造作じゃない。この俺の特徴のない顔が目に留まったのには、それなりの理由があったんだろう。
その理由が昨日わかった。
先輩は、誰かと見間違えて俺に向かって来たんだと。それが多分、アンジーって人なんだってことに、昨日、気付いてしまった。先輩に"何か”を感染させ、先輩を"吸血鬼っぽい何か"に変え、その直後に事故死したらしい男。勿論、俺はそんな男は知らないが、多分、見間違うほどにはソイツと俺は似ているんだろう。
「あの時、先輩は、誰かと俺を見間違えてた」
「…先輩も、憶えてますよね?」
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