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先輩の無駄遣い、ダメ、ゼッタイ
「ユキちゃんの顔は、特徴がない、なんてことはないよ…」
先輩は言い訳のように呟いた。
「そうかも知れませんけど、でも、遇ってたことは事実ですよね?」
「本当に察しがいいね。ユキちゃんは」
先輩は、呆れたように呟くと、タブレットを置き、俺の正面に座り直した。俺も起き上がって、ベッドから降りようとしたが、先輩が手を上げて止めた。俺は仕方無しにベッドの上に正座した。
「…ユキちゃんの言うとおりだよ。あの日、ユキちゃんを人混みで見掛けて、後を付けたんだ。ユキちゃんが働いてたコンビニにも何度も見に行ったよ。ユキちゃんのこと」
「…だけど、それを社長に見つかってしまって、そうしたら、社長がユキちゃんのことを気に入ってしまったんだ。まさか同じ職場で働くことになるとは思わなかった」
先輩は、ゆっくり言葉を選ぶようにして話し始めた。
俺は人の出会い方なんて、どうだっていいと思ってる。仮に先輩と知り合う以前に、俺達がどこかで偶然居合わせていたとしても、俺は全然気にしない。先輩の昔の知り合いに俺が似ていたとしても、それだって別にどうでもいい。だが、後を付けられていたとはな。全然気づかなかった。しかも、何度もバイト先に来てたなんて。俺は、あの狭いコンビニの店内を思い出していた。先輩は何もしなくても地で結構目立つ人なのに、一体どこから見られていたんだろう。どんだけ隙だらけだよ?ああ、俺は諜報員にも忍者にも殺し屋にもなれない、と思った。
「確かに最初は間違ったけど、それはただの切っ掛けなんだ」
「ユキちゃんが、彼に似ているって言っても、彼と混同したことはないよ」
俺はソイツが誰だか知らないが、先輩が『彼』と言うのに、俺は何故だかイラッとした。先輩の言い方に、どこか親密な匂いが付いている気がして、また余計な邪推をしてしまいそうだ。俺はなるべく不機嫌さを出さないように努めて冷静な顔を作った。
「ユキちゃんと彼を重ねたこともないし…ちゃんと違うって判ってる。似てるっていうのは、単なる切っ掛けでしかないし、ユキちゃんのことはユキちゃんとして好きだよ。仮令、外見が違ったとしても、ユキちゃんのことは好きだと思う」
先輩が言い募る間中、俺は別のことが気になっていた。
「別に似てたっていいんです。そこんトコは全然気にしてないんです。それより、どれくらい似てるのかって方が気になって…画像とかないんですか?」
俺は、この近辺に住む俺とほぼ同じ顔の人間を少なくとも五人知っている。故に自分と似た顔の人間にはちょっとウルサイんだ。他人の空似なんて高々知れてる。どれくらい似ているのか、俺がこの眼で見てやろう、見てみたいという好奇心の方が強かった。ついでになんなら、”他人の空似”が如何に脆弱なものか、暴いてやろうとさえ考えていた。そう言うと、先輩は気不味そうに俺を見て『ここにはないんだ』と言った。
「出会い方なんて、其々じゃないですか。だから別にいいです。責めてるわけじゃないんで、そこはどうでもいいです」
俺が言うと、先輩は小さくため息を吐いた。
「黙ってて、ごめん。言っても憶えてないだろうと思って。ユキちゃんを見縊ってたよ。ユキちゃん、本当に勘がいいよね。…もう、隠し事出来ないね」
先輩は戯けたように笑った。
「…それなら聞いてもいいですか?アンジーさんのこととか、詳しく」
「詳しく?…って言っても、何もないよ?」
目の前の先輩は、何かを態と隠そうとしている風には見えなかった。ただ、それが俺の知りたいことと一致しているかどうかは別だ。
「でも、俺は知っときたいってこともあると思うんです。いいですか?先輩と俺が、これからも『付き合っていく』っていうんなら、俺は聞いておきたいんです」
先輩は、ちょっとだけ目を泳がせた。迷っている。何か知られたくないことが、まだどこかにあるらしい。すると、先輩から口を開いた。
「あの日、人混みの中でユキちゃんを見つけて、後を付けたのは、ただの気の迷いだったんだよ。彼だと思って近付いたけど、目が合った時に判ったんだ。ユキちゃんが僕を知らないってことに。だから別人だってことは判ってた」
「でもアンジーさんって、それよりずっと前に事故死?したんですよね?」
「…僕の目の前でね」
そう言った先輩は、何故だか自嘲しているように見えた。
「でも、吸血鬼だったんですよね?」
「そうなんだ。だから彼の状態が今の僕と同じか、それ以上なら、もしかしたら何処かの段階で、まったく別の場所で別の可能性と入れ替わっているかも知れない…そう思えて…それまでずっと彼を探してた。そしてユキちゃんに遇った…これが全てだよ」
部屋の空気が重苦しかった。目の前での事故死って、どういう状況なんだろう。疑問に思いはしたが、訊けなかった。車に撥ねられるだとか、高いところから落ちるだとか、いろいろ考えたが、異次元空間を跨いで殆ど無制限に新品交換出来るような未知の生命体が確実に死ねる方法というのが、どうにも想像できなかった。俺の沈黙を先輩はどう取ったのか、急に意を決したように口を開いた。
「彼は、灰になったんだ。泥酔してしまって、そのまま陽の光を浴びて…」
言い掛けたまま、先輩は立ち上がって、窓際まで歩いていった。北向きの窓から西日が斜めに入り込んでいた。先輩は、窓を背に俺に向き直ると、陽のあたる場所に向かって手をかざした。
「こんな風に」
瞬間、先輩の腕から、ぱっと炎が上がった。
「ぁああ”っ!!あ”っあ”ーっ!!!」
言葉が出なくなるって、こういう時のことなんだろう。俺は叫ぶことしか出来なかった。考える前に体が動いていた。触れた炎に熱さは感じなかった。気付いた時には、先輩の腕を力いっぱい引き寄せていた。勢い余って足が縺れ、横倒しに転んで、俺はキャビネットの角で頭を打った。『ガツン!』と音がして、火花が飛んだ。咄嗟に見開いた視界を塞ぐようにして先輩が降ってきたと思うと、鈍い音を立てて、俺の顎に頭突き、胸に肘鉄がクリーンヒットした。
「ッ!!ーーーーーっ!!!がはっ」
「ユキちゃんっ!!大丈夫?!」
衝撃に一瞬息が止まり、すぐさま胸が揺さぶられ、俺は激しく咳き込んだ。先輩が慌てて俺の上から飛び退いた。俺は後頭部と顎と胸へのトリプルパンチに悶絶しながら先輩を見上げた。先輩から立ち上がっていた炎は嘘みたいに消えていた。熱さの余韻も、何かが焼けた匂いもしなかった。俺は長年住んでいる筈の自分の部屋を、初めて入って見る建物のように見渡した。明かりが点いていない薄暗い天井、窓に掛かるカーテン、本棚、床、部屋の中は何事もなかったかのようだった。
咳は、なかなか止まらなかった。俺は床の上を転がりながら、だんだん腹が立ってきた。喚きたかったが、何から言って良いのかわからなかった。
「何やってんですかっ!!もう!アパート燃やす気ですか?!」
漸く絞り出した声は、掠れて情けないものだった。
「大丈夫。他のものには燃え移らないから…」
先輩は俺の周りでオロオロしながら、言い訳がましく呟いた。
「ごめんね!!ごめんね?!何か冷やした方がいいよね?頭?顎?…どうしよう…」
「違うっ!!そうじゃないっ!!いちいち体を張らなくていいですからっ!!そんなことしなくても判りますから、止めて下さいっ!!デモンストレーションとかいいです!!」
先輩も部屋もなんともないとわかると、一層、痛みが増してきた。アバラが折れたんじゃないかってくらい痛かった。だが自分で服の上から触った感じでは、なんともなさそうだった。人間の肘があんなに鋭いなんて、まさにサックリ刺さってくる感じだった。先輩が冷凍庫から保冷剤を持ってきて、俺の手に握らせようとした。
「…痛い。触らないで…触らないでください、自分でなんとかしますから…」
「ユキちゃん…本当にごめんね。救急車とか…呼んだほうが良い?」
「いや、そこまでは…もう、いいです。先輩は?火傷とか大丈夫なんですか?」
先輩は、思い出したように自分の手を見て『表面が燃えただけだから…』と言った。ほんのりと赤くなった先輩の腕を見て、俺は可笑しくなった。つるっとした滑らかな皮膚の上に、よく見ないとわからないくらいヒョロヒョロと生えた産毛が、一本ずつクルンと小さな輪を作って巻きあがっていた。
「産毛、燃えてますねwwちょっとだけ縮れてるwww」
先輩は、もう一度自分の腕を見直した。
「…本当だw」
「産毛まで吸血鬼?なんですかね?なんだろ、映画とか見てるみたいだった」
「…吸血鬼って、本当に日光ダメなんだ?なんかすごいな。どういう仕組なんだろ?」
俺は、先輩に渡された保冷剤を枕に床に寝転がったまま、先輩と部屋を交互に見渡した。掃き出し窓からは、西日が斜めに突き刺さるように入って来ていた。
「先輩、後ろ…日が長くなってきてます…カーテン、閉められます?」
先輩は、日差しを避けるようにして立ち上がって、カーテンを引いた。薄っすらと部屋が暗くなっていくのをなんとなく眺めていた。ふと、目を上げるとカーテンの陰に入っている先輩の体から、小さく陽炎のように何かが立ち昇っているのが見えた気がした。俺は体に残る痛みに耐えながら、それをよく見ようと体を起こした。だが、明かりの加減でか角度的なものなのか、座った位置からでは見えなかった。心做しか微かにふんわりと甘い香りが立ち上った気がした。
「…やっぱり先輩、あんま窓際に居ないほうが良いですよ。先輩からなんか出てます。蒸発?なんだろう?これ、エーテル?みたいな匂い?」
「起き上がって大丈夫?」
心配そうに聞いてくる先輩の顔を見た。なんでこの人は俺の心配なんかしてるんだろう、と不思議になった。
「もう止めて下さい。髪の毛にしたって、腕にしたって、そういう…自分を粗末にするようなこと。いくら新品交換出来たって、駄目です、そういうのは」
俺が言うと、先輩は、小さく『ごめん』と言った。
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