配達 in the Shibuya

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八月のあたま、渋谷の街にも蝉はいて、夏の盛りを歌っていた。 時刻は午後五時過ぎ。夕陽と車のエンジンとサメの乱杭歯のように立ち並ぶビルの室外機から発せられる熱のせいで渋谷の街はまだまだ暑い。 カーラジオから流れるFMのニュース番組が今日も明日も明後日も猛暑日が続くから屋外での激しい運動は控えるようにと空調の効いているだろうスタジオから伝えていた。おれの車ダイハツ・ハイゼットにも冷房は付いているから、それについて文句は言わない。それに今から配達する荷物で荷台はパンパンだったから、それがカーテンの代わりになって冷房の効きは良い。 おれはスクランブル交差点で信号待ちをしながらフロントガラス越しに横断歩道の前に集まる人ごみを見ていた。集合写真を撮るときみたいに人が身を寄せ合っていて、人と人の間にさらに人がいた。それが何層にも重なりあって数え切れない人の数になっていた。渋谷の街の定員は一体何人なんだろう。 歩行者用の信号が青に変わるとダムの放水みたいに一斉に人が動き出す。きっとこの街が暑いのは夕陽でも車でも室外機のせいでもなく気温と変わらない体温を持った人間たちが集まり、活気があるからだ。 ほら、あそこ。スマートフォンを掲げて渡河の様子を撮影しているマッチョな白人がいるし、カートを押したおばあちゃんもいるし、アイスを食べながら歩くリュックを背負った子供もいる。 みんな汗を拭っていた。ハンカチで。タオルで。袖で。汗をかきながらもひしめき合って街の中に吸い込まれていく。 スーツを着たビジネスマンの鬱陶しそうな顔。ボロの服を着たホームレスのニヤついた顔。ゴスロリ少女たちのワクワクした顔。 そんな人であふれかえる交差点でおれは一人の女性に目を奪われた。背中が大胆に開いたターコイズブルーのワンピースを着た中東系の女性だった。浅黒い肌にくっきりとした目鼻立ちはオリエンタルな雰囲気で黒い髪は大気に晒されている背中をこすっていた。おれが目を奪われたのはスタイルのいい体ではなくて表情だった。三十代くらいに見えるのにすぐ隣を歩く女子高校生と同じくらいハツラツとした笑顔だったからだ。渋谷に来たのは何か目的があるのかもしれない。 信号が歩行者を急かすように点滅し出すと足音が速くなった。その女性は人ごみに飲まれてセンター街の中に消えていった。 おれの運転するシルバーのダイハツ・ハイゼットは渋谷駅とヒカリエをつなぐ連絡通路の下をくぐり、一つ目の信号を左折して井の頭通りに入る。 ここからはアクセルペダルから足を離してブレーキペダルの上に足を置いていつでも止まれるスピードで車を転がす。 ここからはおれもこの街の中の関係者だ。 スペイン坂の入り口から数メートル先にある交番のとなりに荷捌きスペースがあり、そこに車を停める。気をつけなきゃいけないのはここに停めていても駐禁キップを切られてしまうこと。 助手席に引っ掛けていた帽子を取って被る。ドアノブを引いて配達のスタート。朝から始まった仕事もこれが最終ラウンド。 運転席から降りると温水プールみたいな生温い空気に包まれる。きっとすぐに汗をかくはずだ。 ハイゼットの後ろに回ってバックハッチを開ける。荷台にはぎっしりと荷物が詰まっていて、そのせいで運転席はおろかフロントガラスから先の景色も見えない。 おれは荷物の上に置いてある台車を掴み上げて地面に下ろす。そして台車の上に一袋二十キロある米袋を六つ下ろす。配達先はスペイン坂を入ったすぐ先にあるスペイン料理屋だ。 台車のハンドルと足の太ももとつま先に力を入れて店に向かう。 人ごみの流れを読みながら台車を転がす。三メートルくらい先を見ていると人にぶつからない。三メートル先にはメイドのコスプレをした身長170センチはありそうなスタイルのいい女の子がいた。フリルのついたミニスカートから伸びる足は「セクシー」というより「カワイイ」。手にチラシを抱えて配っている。大抵の男はチラシを受け取っていた。こっち向いてくれないかな。そうすれば米袋だっていくらか軽くなる筈だ。彼女がこちらを向いてくれない代わりに背負っているうさぎのカバンがこっちを見ていた。うさぎが笑っていたから、おれも笑顔を返してやった。挨拶は返すのが礼儀だ。 台車を縁石に対して垂直にくっつけるとおれは米袋を一つ抱えて店の階段を登る。 一段一段登る度に頭に汗をかいて帽子の中が蒸れていくのがわかった。 スイングドアを開けると白いシャツに黒のエプソンをしたお姉さんがおれに気づいた。十卓ほどの店内はほぼ満席でこの店も本日の最終ラウンドが始まっていた。 お姉さんがこっちに来る。迷惑そうな顔だった。 おれの手から伝票を引っ掴むと余白にサインをした。死んだミミズみたいにのたくったサインだった。おれは厨房まで行って米袋を邪魔にならないところに置いた。それを五回繰り返した。おれの顔と腕には玉のように丸い汗がいくつも浮かんでいた。 「ありがとうございました!」 お姉さんに聞こえるように言ったが返事はなかった。返事がないのは忙しいだけではない。おれが車に積んでる荷物は全部延着の荷物で中には『午前中までにお届け』とか『時間厳守』と赤いマジックで太く書かれている荷物ばかりだったからだ。一時間で二十件、三十件配ったって、遅れは遅れだった。 ここまで荷物が遅れることは少ないが、延着なんてあるあるだった。だからおれは怒られたってへっちゃら。『おれのせいじゃない』そう思いながら「遅れてすいません」と言って頭を下げる。 いつだって現場が尻拭いをする。 一件だけこっぴどく怒られた。届け先は道玄坂にあるライブハウスだった。怒りの主はライブ主催者。 荷物の中身はアイドルのイベント来場者に配る限定のノベルティグッズだった。おれはそのアイドルのことは知らなかった。でも、ファンにとってアイドルはアイドルだ。その事実と同じようにライブとノベルティを楽しみにしている人が何時間か前にここにいた。昼間の部の来場者には後日、自宅まで送るらしい。 おれは『おれのせいじゃない』って思った。でも、本気の感情が乗った罵詈雑言をぶつけられると少しは応える。この時期の配達は走り回っているせいで身体中の水分が汗になって出ていく。だからオシッコだって出やしない。配る側は世のため人のためと思っていても、受け取る側は荷物が届くことが蛇口をひねれば水が出るくらい普通だと思っているらしい。 車に戻ろうとするとクラクションが鳴らされた。おれの車が邪魔らしい。オフホワイトのBMWがハイビームでおれを煽る。急いでエンジンをかけて脱出。道路にまで広がって歩く人ごみに気をつけながら時速十キロメートルで坂を下る。おれの手にあるのはの殴り書きでサインされた伝票が三枚あるだけだった。 その日の配達は夜の九時ぴったりに終わった。四リットルあった水筒は空っぽだった。制服は汗で体に張り付いていて、自分で自分の汗のすっぱいにおいに嫌気がさした。 タワーレコードの横を通り過ぎてガードの下をくぐり渋谷郵便局方面からまたスクランブル交差点まで回ってきた。この時間でも人の数は多い。これからベースに帰って締め作業をする。まだ仕事が残っていると思うと渋谷で遊ぶ人たちが羨ましかった。 スクランブル交差点で信号待ちをしていると歩行者信号が青になった。大勢の人が互いにぶつからないよう器用に歩く。その人ごみの中でとある女性に目がいった。交差点のど真ん中でTUTAYAをバックに写真を撮っている外国人だった。その外国人は夕方見たターコイズブルーのワンピースを着た中東系の女性だった。顔の横に何かを掲げて満面の笑みを浮かべている。おれは顔の横にある物を見た。それはおれが持って行ってこっぴどく怒られたアイドルのノベルティグッズだった。 わざわざ海を渡ってまでこの日を楽しみにしていたのか。 おれはやっぱり自分のせいじゃないけど今日この日にノベルティを届けてやれなかった人たちに申し訳なくなった。 でも今の目の前にいる女性の笑顔が見れただけで少しは救われた。荷物を届けた時に一番嬉しいのはおれに対するありがとうとかじゃなくて、おれの目の前で「やった!」と嬉しそうな顔や言葉を聞けた時だ。その声は本当に一握りにしか聞くことはできない。 点滅する信号が歩行者を煽る。ターコイズブルーの中東系の女性も渋谷駅側の人ごみの中に消えて行った。おれはカーラジオのスイッチをオフにして、運転席と助手席の窓を全開にした。車の中に人ごみが発する音が入ってきた。楽しそうな声、きぬ擦れの音、軽やかな足音。重なりあったその音は人で溢れかえる街の声のように聞こえた。
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