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急いでこの文章を書いている。
大学一回生の、夏の始め頃、知人に話しかけられた。
そこが講義室だったか、どこかの部室だったか、今では判然としない。
机を挟み、差し向かいで話をしていたように思う。
「なあ、新開。お前、この世で一番怖い話って、なんだか知ってるか?」
確か、そんな風に話かけられた。
ちなみに新開というのが、僕の名前である。
「さあ、なんだろうね」
答える僕に知人は、その怖い話とやらを聞かせてくれた。
「真相のよく分からない、いわゆるオカルトスポットの話なんだけどな。この街の、とある十字路に立つカーブミラーなんだ。よくあるタイプのミラーだから見かけた事はあると思うけど、一本の柱に二つミラーがついていて、右から来る車と左から来る車を確認できるように設置されている、あれだよ」
「うん。それで?」
「決まった時間。まあ、夜中なんだけど、車が全く通らないような時間帯にそのミラーの前に立つと、自分が映ったミラーの反対側に、死神が映ると言われているんだ」
「…ん? 何が映る?」
「死神だよ。だけどこの話の肝はな、新開。自分がミラーに映るように立った場合、反対側のミラーに何かが映っていようと、角度的に本人には確認しようがないんだ」
そうだろうね。
死神が映ると言うが、それはどうやって確認したんだ。
僕はそういう意味で、何が映っているのかと、尋ねたのだ。
「ひとつだけ、確認する方法がある」
いや、方法ならいくらでもあるんだけどね。
「第三者に監視してもらう」
なるほど。トリックの話ではなかったわけだ。
「そして、決められた時間にミラーの下に立って死神を待っていると、現れた死神がミラーから抜け出して、反対側のミラーに映った自分を引きずり込んでしまうんだ。するとどうなるか。引きずり込まれた人間は、その存在ごと消えてしまうんだそうだ」
存在ごと。
そう。その時知人は確かに、存在ごと、と言ったのだ。
「何故この話が都市伝説のように広がりをみせないかと言うと、ここに問題点がある。ミラーからミラーへと引きずりこまれた人間は、そこに立っていた現実世界の肉体をも消し去られてしまう。となると、目撃者でもいないぎり、全てがなかった事になる。とは言え、目撃者がいた所で、時間の問題なんだけどな。なにせ、存在ごと消されてしまうんだから」
答えない僕に、その知人は念を押すように、再度繰り返した。
「その人間が存在したことすら、忘れ去られてしまうんだよ」
…と、知人が、茫然とする僕に顔を近づけて口を開いた。
何かを言おうとしたのだと思う。
その時、知人の目が僕の肩越しに背後へと注がれたのが分かった。
「やあ、昨日は、どうも」
知人がそう言ったので、僕は振り返った。
そこには一人の女性が立っていた。
僕が所属する文芸サークルの一つ年上の先輩で、名を辺見さんという。
どうかしましたか。
なにか、用ですか。
尋ねようとした僕の背後で、声が聞こえた。
「助けてくれ新開」
はっきりと、そう聞こえた。
その声は、辺見さんの方を向いていた僕のすぐ後ろ、息がかかる程の耳元で聞こえた。
助けてくれよ…新開…。
「振り向かないで」
辺見さんがそう言った、その瞬間である。
僕の背後で何かが砕け散る音が響いた。
何の音だかは分からない。
一つ言えるのは、もう既に僕はその音を文字に書き起こす事ができない。
耳をつんざくような、けたたましい音だった、としか分からない。
僕が知人の方へ振り返った時、そこには何もなかったのだ。
はっきりと何かが割れた、砕けたような音が聞こえたにも関わらず。
何もなかったし、何も落ちてなどいなかった。
そして、誰もいなかった。
誰も、そこにはいなかったのだ。
再び視線を向けた時、辺見さんはお腹の前辺りに小さな手鏡を持っており、その手鏡には何本もの亀裂が走っていた。
鏡がたった今割れたのか、もともと割れた鏡を持っていたのか、僕には分からない。
辺見さんは真っ白い顔で目を見開いたまま、可哀想な程震えていた。
僕は今、知人と話をしていませんでしたか。
何かが割れたような音がしませんでしたか。
何があったのかを尋ねても彼女は決して答えず、どれだけ問いただしても頑なに口を割らなかった。
忘れないうちに全てを書き留めなければいけない。
時間との勝負だ。
僕はこの文章を
た
これは、はたして僕が書いたのだろうか。
創作だとは思うが、そもそも書いた覚えがない。
僕には友達なんていないし、この『知人』という人間にも心当たりはない。
季節が冬になり、僕はこの文章を辺見先輩に読ませてみた。
しかし彼女は何も言わず、苦笑して首を傾げただけだった。
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