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館内の巡回を始めて三〇分が経った頃、マイクはいつも通りの静かな業務に勤しんでいた。
これといって何もおかしなものは見つけられず、件の幽霊に遭遇することもなく、ガラスケースの中にいるタカやフクロウも物言わぬ剥製らしく微動だにしない。
当たり前だが、動く気配は微塵もない。
やはり噂は噂、警備員の失踪はなんでもないただの失踪だし、幽霊は目の錯覚か何かなのだろう。
結局、いつもと変わらない退屈な業務であることが分かると、「帰ってコーラ飲みながらアメフト観戦したい」など至極能天気な思考がマイクの脳内を埋め尽くした。
あまりにも退屈な仕事に刺激が欲しかったマイクは、短く溜息を吐きつつ、二階の巡回を一通り終えて無線を手に取る。
「こちらマイク。二階は特に異常なし。そっちはどうだ?」
定型句で通信を送り、ケビンの返事を待つ。
特に問題がなければ、状況確認と共有の為に一度合流する手筈だ。
しかし、返って来るのはブラウン管テレビの砂嵐が発する様なノイズのみで、繋がっているはずの無線からケビンの声は返って来なかった。
「どうしたケビン? 応答しろ。ふざけてるなら怒るぞ」
ケビンが噂を利用して自分をからかっているのだと思い、マイクは語調を強くして再度呼び掛けるが、やはり無線から発せられるのはノイズだけだった。
「なんなんだよまったく……」
流石に悪ふざけが過ぎる。
そう思いつつも、本当に何かあったのであれば直接確認しに行かなければならない。
一階から二階まで吹き抜けになっている場所が多いので、大声で呼び掛ければ反応するかもしれないが、確実に安否を確認する為には一階に向かうべきである。
一抹の不安を抱きつつもマイクは小さく舌打ちをし、無線をホルスターに戻して素早く目の前の階段を降りた。
マイクが下りた場所は、五人の女性が背中合わせで立つオブジェが空間の中央に座すドーム。一階の端に当たる場所だ。
懐中電灯で辺りを照らして周囲に異常が無い事を確認すると、マイクはケビンとの合流場所であるエントランスホールへと向かう。
全く明かりは無いが、廊下を真っ直ぐ行けば辿り着くので、館内を歩き慣れているマイクが道に迷うことはない。
――しかし今夜ばかりは、館内が全く違う場所に思えた。
季節は夏、虫も寝静まる深夜でも肌が汗ばむはずの館内で、マイクは異様な涼しさを感じたのだ。
それは機械的に生み出されたものではなく、不可視の手が指先で肌をなぞる様な感覚だった。
一歩、また一歩、目的のエントランスホールへと近付くにつれてその涼しさは強くなり、やがて寒気へと変わっていった。
急速に体の熱を奪っていくそれはとても不気味で、この様な感覚はマイクにとって初めてだった。
得体の知れない感覚に恐怖すら覚えはじめ、その足は段々と覚束なくなる。
今まで一度もこの様な事は無かったが、まさか幽霊の噂は本当なのだろうか。
そんな思考さえ過る程度に、彼は異常な感覚と寒気に襲われていた。
「ケビン! いるか!?」
エントランスホールに辿り着く前に、マイクはケビンの名前を叫んでいた。
ケビンの安否を確認しなければならないという想いと、出来ればこれ以上進みたくないという感情の葛藤がそうさせたのだろう。
だが、またしても返事は無かった。
ここで漸くマイクは意を決し、エントランスホールへと足を踏み入れる。
するとマイクは、正面玄関に近い場所で、うつ伏せに寝そべっているケビンの姿を見つけることが出来た。
何故床で寝ているのかは分からないが、噂の様に蒸発していないことに安堵してマイクはすぐさま駆け寄ろうとする。
ところが、その足は突如として止まった。
いや、止めざるを得なかった。
何故なら、ケビンの体には下半身が無かったからだ。
変わり果てた同僚の姿を目の当たりにしたマイクは、驚愕と恐怖のあまり、叫び声すら出せなかった。
懐中電灯の明かりにより照らされたエントランスホールの床は真っ赤な血の海と化しており、大量の血は全て断裂したケビンの腹部から流れ出ている。
臓物は零れ落ち、生臭い匂いが辺りに充満していた。
瞳から光は消え失せ、当然ながら既にケビンが絶命していることもマイクには分かった。
想像以上に危険な状況に陥り、マイクの全身から汗が噴き出す。
恐怖心が博物館からの逃走を急かすが、危機的状況が逆に彼の思考を冷静にさせた。
マイクは疑問を抱いた。
「ケビンの下半身はどこにいってしまったのか」と。
断裂されたケビンの腹部は、明らかに何かによって引きちぎられた様相だ。
決して刃物やチェーンソーで両断したのではなく、強引に引き裂かれた様な姿であった。
この様な芸当が出来るのは、いったいなんだろうか。
決して人間技ではないし、出来るとすれば悪魔や幽霊といった不可解なもの、そして巨大な生物のいずれかだ。
ふと、エントランスホールには二体の大型恐竜の化石があることを思い出し、ホールの中央に懐中電灯の光を向ける。
「……は?」
マイクの口から漸く声が出た。
その声には、理解出来ないものを目の当たりにした時の困惑が込められていた。
そこにいるはずの二体の恐竜のうち、一体の姿が無かったのだ。
全長およそ二六フィートの、決して動かないはずの骨の像が忽然と姿を消していた。
もうマイクには、何が起きているのかさっぱり分からなかった。
ただ唯一分かることは、一刻も早くこの博物館から立ち去るべきだということだ。
何が居るとしても、ケビンの二の舞になる訳にはいかない。
スタッフ通用口を目指す為、マイクが素早く踵を返したその時だった。
彼の目の前に、人間の下半身が落下した。
「!?!?!?」
突然のそれにマイクは声にならない叫びを上げる。
不可解な事態の連続に、彼の頭は恐怖と混乱に満たされていく。
一刻も早く逃げなければという気持ちを抱きつつも、マイクは目の前のそれを分析せずにはいられなかった。
警備員の制服を着た人間の下半身、間違いなくケビンのものだ。
これでケビンの下半身がどこにいってしまったのかという疑問は解消されたが、更なる疑問がマイクの頭に浮かんだ。
「なぜこれが上から落ちて来たのか」ということだ。
予定調和の如く、マイクは上方を確認しようと懐中電灯の明かりを上に向ける。
しかしこの時、マイクは自身の行動を後悔した。
この様なことなどせず、逆方向へ一目散に走り出すべきだったと。
自身の目の前に何が居るのか見ずとも気付くべきだったと。
――見上げた先にあったのは、口許に夥しい血を纏わせる巨大な恐竜の頭だった。
その夜、LA自然史博物館の近隣住民は巨大な獣の叫び声を聞いたという。
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