君はかき氷にどんなシロップをかけているか

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「私らしさって、何だろうね」  罪を告白するような空虚で神聖な声が落とされて。  少女は、赤く色づいた氷の山にスプーンを突き刺した。  八月の、とある暑い昼下がり。27度に設定された冷房の空気で満たされている家の主は、スプーンを机に並べていた。一枚の窓を隔てて、外では蝉が忙しなく夏の音を奏でている。その声が夏の暑さを一層引き立てているように感じられた。  窓に目を向ければ、輝かしいほどの青空が広がっている。その蒼天に寄り添う巨大な雲は、汚れのない白で眩しさを更に際立たせている。まるで絵画のような、圧倒的な美しさだ。そう、夏は美しい。外に出ず、涼しい部屋から見ている分には。外に出れば、日本特有の質量のあるねっとりとした空気に絡め取られてしまう。そんな目には遭いたくないと、全細胞が訴えていた。 「先生、お邪魔しまーす」  その時、チャイムもなくドアが開けられる。外の熱気とともに入ってきたのは、真夜中の空のような黒髪をなびかせた少女だ。この少女は隣の家に住んでおり、先生、と呼ばれた家の主とは昔からの付き合いだった。彼女が高校生になった今でも、家族ぐるみで親戚のような関係が続いていた。  少女は入ってくるなり、髪を持ち上げて自身の首筋を扇ぐ。冷房の涼しさを全身で味わうように目を細めた。この時間帯では、外は鉄板の上で焼かれるほどの痛みを伴う日差しだっただろう。 「暑すぎて死にそう……。髪、結んでくれば良かったなー」 「冷房、もう少し下げるかい?」 「うん、お願いー。先生は髪が短くていいなー、涼しそう」 「まぁ、そりゃあね。ほら、かき氷を作っておいたから、座りなさい」 「わー!食べる食べるー!」  少女が遊びに来るという知らせを受けて準備した、かき氷を机の上に二つのせる。といってもただ氷を削ったものなのだが、少女は気だるげな表情を一転させ飛びついた。慣れた様子で椅子に座り、台の上に並べられたシロップに目を滑らせる。その中から苺を選び、透明な冷気と淡い白さを保つ氷の山にかけていく。綿菓子が溶けるように、氷山が少しだけ小さくなった。  先生、と呼ばれているとはいえ、この家の主は少女の学校の先生と言うわけではない。この近くの大学の教授をしているのだ。そのためかは分からないが、少女は困ったことがあれば度々この教授の元を訪れた。今日だってそう。一見明るい様子だが、何か悩みがあるのだろう、と教授は予想していた。そして教授がそのように思っていることを、少女も分かっていた。  教授が雪色をレモンの色に染め上げたのを見届けて、少女はスプーンを口に運んだ。シャクリ、と独特の舌触りと冷たさが体を滑らかに駆け抜け、後から苺の甘さが仄かに口内を包み込む。先程よりは随分冷たくなった息を吐いて、同時に言葉を漏らした。 「私らしさって、何だろうね」、と。  かき氷に突き刺されたスプーンは抜かれ、また氷の中に埋められる。ジャクジャクという悲鳴とともに、シロップが容器の下の方まで浸食していく。どうやら味のついていない氷は嫌らしい。  感情の読み取れない少女の表情を見て、教授は僅かに眉を下げた。 「……難しい質問だね」 「えー、先生でも?」 「あぁ。本当に、難しいよ。……君はどうして、そう思ったんだい?」  教授の問いかけに、少女はピタリと動きを止めた。そして今度は細かく砕けたかき氷を混ぜ始める。少女にとっては何となくの行動だろうが、教授には揺れ惑う少女の心が現れているようにも感じられた。 「……あのね、好きな大学を選びなさいって言われたの。貴方の好きな大学をって。……でも、考えれば考えるほど分かんなくなってきちゃった。興味のあることも、やりたいこともない。得意なこともないもの」 「そうかい?君は、歌が上手いじゃないか」 「単なる趣味の範囲だし、私より上手い人なんて周りに沢山いるよ。大学をそれで選ぼうなんて思わないし。……そうやってずーっと考えてたら、すごく惨めになってきたの。自分って思ってたよりも個性なかったんだな。……空っぽだったんだなーって」 「……」  少女は全く教授と目を合わせようとしない。その瞳までも凍ってしまいそうなほどに、ただかき氷だけを映していた。 「まぁそもそも、大人ってずるいとも思ったよ。ああしなさい、こうしなさい、みんなと同じようにしなさいって私を型にはめようとしてくるのに、変なところで責任を放り投げるんだから」  その言葉は、誰かに向かって言っているわけではなかった。夜の海に一人で立っているような、静けさと寂しさを滲ませた声色。何があるのか分からない向こう岸を、じっと見据えている少女がそこにはいる。  目を伏せて氷を口に運ぶ彼女から、教授は懐かしい潮の薫りを感じ取った。いつかは自分も足を掬われた波。この胸を叩く薫りに気づかぬ振りをするようになったのは、随分前の頃からだったように思う。 「……じゃあ、君は個性をどんなものだと思っているんだい?」 「ふふ、なんだか道徳の授業みたい」  そうだなー、と少女は宙に目を泳がせた。不意に冷房の風向きが変わり、短い髪に人工の冷たさが直で届く。教授は僅かに身をすくめた。少女とは違い、ずっと家の中にいたため元々暑さは感じていなかったのだ。かき氷も食べているし、もういいか、と冷房の温度を一度上げた。 「その人だけが持ってる特徴、みたいな?由美ちゃんは足が速いし、陽菜ちゃんはいつも面白い話をしてくれる。葵ちゃんは漫画が好きで沢山持ってるよ。あと、先生はいつも落ち着いててかっこいい!」 「ありがとう。……でも、それは本人にとって個性に成り得るのかな?」 「……どういうこと?」 「例えるなら、そうだね」  教授は、机の上に並べられたシロップへと視線をずらした。少女と教授が選んだ苺とレモンの他に、メロンとハワイアンが置かれている。それらは窓から溢れる日差しを浴びて、まるで魔法の薬のようにキラキラと鮮やかに机を彩っていた。その中から教授はレモンを取り、自分と少女の間に移動させる。 「その人自身を、かき氷の氷の部分だとしよう。私はね、この人には個性がある、と言うのは、氷にシロップをかけるようなものだと思うんだよ。……この人はこの色だっていう、外から見た勝手な決めつけでありレッテル貼りだ。氷自体は、真っ白なままなのに」 「……真っ白だから、何にでもなれるって言いたいの?そんなの聞き飽きたよ。何にでもなれるから、何にも分からなくて、不安で怖くてたまらないのに」 「はは、違う違う。極端に言えば、自分の個性が分かっている人はほとんどいないのかもしれないねって話さ。そもそも自分という氷だって、水にも空気にも形を変える。そんなあやふやな自分の『個性』や『らしさ』なんて、分からなくて当たり前だ」 「……そうなの、かな」  少女の声が揺れる。まるで迷子の子どものような眼差しが教授に向けられた。  ただ漫然と生きていくだけでは許してもらえないこの時代。「自分」というものに向き合うことを強制される、そんな生きづらい時代。「確かな自分」など見つけることが出来た人は、本当にいるのだろうかと教授は思う。少女の悩みは、自分に向き合ったからこそのものだ。同じ不安を持つ迷い子は、きっと少女の他にも多くいる。 「男とか女とか、勉強ができるとか、いつも幸せそうとか、そういうのも全部個性であり決めつけになる。勉強ができる人も、幸せそうな人も、周りが知らない苦労を持っているかもしれないだろう?だから、決まった色のシロップなんてかけられないんだよ。私たちが外から見て思う『その人らしさ』は、必ずしもその人にとっての『らしさ』になるとは限らないさ。人って、型にはめられない。その人自身も、自分というものが分かっていないことが多いのだから」  その人の幸せも、感情も、個性も、外から見ただけでは分からない。決めつけることなんて出来ない。それは、その人自身も「自分」というものが分かっていないから。様々な要素で作り上げられたのが「自分」なのだから、どれか一つの個性を見つけることは難しい。それが当たり前。だから、「らしさ」を持っていなくてもいいんだと。そう、教授は少女に伝えたかった。 「まぁ、たまに『自分はこのシロップだ』って胸を張って言える氷もいるけどね。それが特別な氷なだけだよ」 「……ふふっ。そんな氷いたら苺のシロップかけにくいじゃん」  どこかいたずらっ子のように口元を緩ませた少女は、ふー、と深い息を吐いて椅子に背中を預ける。話し込んでしまったせいか、かき氷の器の底の方は既に水に変わっていた。少女は赤い氷を掬おうとし、少し考え、僅かに残っていた何もかかっていない氷の部分を食べてみた。味のしない、冷たい氷。しかし、その純粋な味を嫌だとは思わなかった。 「難しいんだね、私らしさって。ばしっと答えがあれば良いのになぁ」 「そうだね。……難しい問題だ」  かき氷を食べ終え舌を真っ赤に染めた少女は、どこか晴れやかな顔で靴を履いた。リズムを奏でるようにつま先をトントンと鳴らして、教授の方を振り返った。 「あのね、先生」 「うん?」 「夢を叶えるために頑張る人とか、将来の夢がある人とかって、すごい人たちなんだって思ってたの。お母さんも、由美ちゃんは薬剤師になるためにあの大学を選んだのよ、偉いわねって言ってくるから。だから私、自分もやりたいこととか夢とか見つけなきゃって焦ってた。なんで自分は何もないんだって、早く決めなきゃって」 「……」 「でも、ないままでいいのかなって思ったよ。そりゃいつかは決めなきゃいけないけど、無理矢理見つけようとする必要ないよね。私らしさがない、このままの私でもいいよね。だって、先生でも難しいんだもん。私が分かるわけないよ」  その言葉は、まるで清風のように穏やかで心地の良いものだった。少女が玄関の扉を開くと、忘れかけていた暑さが肌を撫で上げて教授は思わず眉をしかめる。しかし少女は対照的に、軽い足取りでアスファルトの上に降り立った。照りつける日差しに透けた長い黒髪が、生き生きと跳ねたと同時に瞬いて。 「あ、でも一つだけ」  そう言った少女は、夏を味方に付けたような照れた顔で笑った。 「私、先生みたいな大人になりたいな!」  目を見開いた教授を置き去りに、「また来るね!」と手を大きく振って駆けだした。その素速い背中を見送った教授は、困ったように苦笑いを浮かべて俯いた。 「…それこそ、決めつけだよ」  私はそんなに立派な人間じゃないよ、と。そう、教授は心臓を震わせる。  少女の質問は、彼女が成長していくごとに難しいものへと変化していた。最初は虫の名前や計算の仕方だったのに、今では教授自身答えを見つけることが出来ないものになっている。自分の人生の意味を問われているようで、ほんの少し緊張していたことはばれていないだろうか。  大人は全てを知っているわけではない。大人だって悩む。答えを見つけられずに焦って、それを見て見ぬふりをして向き合っていないだけだ。望んで大人になったわけじゃない。準備をする間もなく、気づけば大人というレッテルを貼られていただけだ。  私は大人なんて、素晴らしいものじゃない。君の延長線上にいる、ただの人間だよ。  そこで、ふと顔を上げた。一度は離れていった足音が、再び近づいてきたことに気づいたからだ。家の外に目を向ければ、少女が走りながらこちらへ戻ってくる。その額には既に汗が滲んでいた。 「先生、言い忘れてたことがあった!」 「どうしたんだい?」 「先生、前の長い髪も可愛かったけど、短い髪も似合うね!何て言うか、こっちは綺麗!」 「……はは、わざわざそれを言うために戻ってきてくれたのかい?ありがとうね」 「私もベリーショートにしてみようかなぁ。……女は髪が長いって言うのも、決めつけだもんね!」
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