師走

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 玉ねぎを切っていて涙が出た時も、こんなふうに顔を触られたなぁなんて不意に思い出す。  あまねくんの大きい手が私の顔半分を覆ってしまって、やっぱり男の子なんだと胸がとくんと1つ鳴った。 「ねぇ、まどかさん。その人と別れたいって言ったよね?」 「うん……」 「それならもう別れて解放されようよ」 「……うん」 「悲しくなったら俺がいるから。俺じゃ頼りないかもしれないけど……」 「そんなことないよ。今日もすぐに来てくれて嬉しかった」 「本当? 押し掛けて迷惑じゃなかった?」 「ううん、全然。あまねくんの声聞きたかったから、電話も嬉しかった……」  何でだろう。こんなに素直に自分の気持ちを誰かに伝えることなんて小学生以来のことかもしれないのに、彼の手が触れているからなのか、涙と一緒に溢れていってしまうのか、何の惜し気もなく思っていたことが言葉として出てしまう。 「声? 俺も。23日誘ってくれたのに会えなかったから、せめて声だけでも聞きたくて電話かけちゃった。遅い時間に会うのは迷惑だと思って断ったのに、結局きちゃったし」 「……ありがとう。会えてよかった」 「そっか……。じゃあ、来た甲斐あった」  嬉しそうにふふっと笑ってくれるから、私も自然と頬が緩む。  すっと彼の手が離れて、その手の先を目で追うと、彼の視線とぶつかった。スーパーの建物から少し離れたところに停めた車内には、少しだけ漏れた光がお互いの表情を浮かび上がらせる。  涙でメイクもぐちゃぐちゃで、こんな顔を見られたら恥ずかしいと思うのに、なぜか彼の目を逸らせなかった。  目線が重なり合ったまま、彼との距離が近付く。  彼との距離まであと20cm……というところまできて、彼は動きを止めた。  キス、されるかと思ったのに……。  一瞬舞い上がり、一瞬で現実へと引き戻される。  彼がそのままフロントガラスの方へと視線を移すものだから、私もそちらへ視線を移す。買い物帰りの主婦であろう女性が立ち止まってこちらを見ていた。 「……まどかさんち、行ってもいい?」  その人物に視線を残したまま、彼は言った。主婦は、ばつが悪そうにそそくさと私達がいる車の前を通りすぎて行った。  そういえば車内だったと場所をわきまえずキス待ち状態となってしまった自分が恥ずかしくなる。 「……うん。歩きだけど、いい?」 「いいよ。一緒に歩こう」  いつもは私がここに迎えにくるけれど、歩いても10分くらいで家に着く。大した距離ではないけれど、1人で歩くとなると少し距離を感じる。  私達は車から降りて、並んで歩く。こうして隣にいると、花鳥園を一緒に回った時のことを思い出す。  あの時はもっと明るくて、彼の表情もとても無邪気だった。しかし、今は頼りない街灯に照らされて、不安定な空気の中、妙に大人びた彼の横顔を伺う。  下からの視線に気付いてか、彼はちらりとこちらを見ると、「どうかした?」と聞いた。私は黙ったまま首を横に振る。次の瞬間、左手が温かくなった。 「ほら、寒い中外にいたからこんなに冷たくなってる」  大きな手が指の間を縫ってぎゅっと握られる。  その手を少し上に掲げて「ね?」と彼は首を傾げた。  何、この子……可愛い。  ハイジさんから可愛いはタブーだと言われていたけれど、こんな顔をされたら思わずにはいられない。  恋人繋ぎなんて何年ぶりにしたことだろう。雅臣と手を繋いだ記憶もない気がした。  人前で手を繋ぐだなんて恥ずかしいと思っていたし、そんなカップルを見つけたら冷めた目で見ていた。それが、こんなにも温かくて照れ臭くて、嬉しいことだったなんて知らなかった。  彼といると、初めて知る感情も経験も多い。  私、こんなに人を好きになったの初めてかもしれない。  どんどんあまねくんの体温を奪っていく左手が憎らしい程、そこから全身に熱が染み渡ってくる。
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