師走

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 少し彼の腕が緩んで、それと同時に空気を吸い込む。  肺が一気に膨らんで、自分が思っていた以上に呼吸が不十分だったことを実感する。そちらに気をとられている内に、少し体の距離を取った彼と目が合い、見つめられた途端に、動けなくなる。  体が石化してしまったかのように硬直してただ彼の視線を受け止めることしかできない。目が合った瞬間に硬直させられるなんて、彼はメデューサの生まれ変わりかなにかかとどうでもいいことが頭を過る。  優しく頬を包まれて、軽く目を伏せた彼の睫毛は驚く程長くて、一瞬にして彼との距離が縮まり、唇同士が触れそうになる。  寸前のところで、咄嗟に動いた手を自分の唇と彼の唇との間に差し込んだ。  ぐっと動きを止めた彼がゆっくり目を開き、再び私の視線を捕らえた。 「まどかさん?」 「ごめん……。あの、一応まだ彼とは別れてないわけだし……これ以上は浮気になっちゃうから……。ちゃんと別れてからというわけにはいきませんか」  右手の隔たりを掲げたまま、丁重にお伺いを立てる。 「……変なところ真面目だよね」 「だ、だって……。私、浮気されて凄くショックだったし、同じことを彼にするっていうのは気が引けるというか……」 「でも、もう別れるんでしょ?」 「同じ別れるにしても、別れる前と後とでは感じるものも変わってくるというか……」 「わかった。まぁ、これでまどかさんも浮気できない人だっていう証明にはなったし」 「え?」 「俺は絶対浮気しない自信あるけど、まどかさんはモテるだろうから、この先色んな男が近寄ってくるでしょうし」  彼は、私の手から顔を離し、体も後ろに引くとコートを脱ぎながらそう言った。 「も、モテないよ! モテるのはあまねくんの方でしょ?」 「俺? 俺こそモテないよ」 「嘘だ」 「嘘じゃないって」 「じゃあ、いつから彼女いないの?」  こんなこと、今まで誰かに聞いたことなどない。それなのに、不思議とあまねくんには考えるよりも先に質問が飛び出してしまう。 「うーん、3年くらいかな?」  彼女、いたことあったじゃん! ハイジさんの嘘つき! ハイジさんと茉紀との童貞のくだりを思い出し、心の中でハイジさんを責める。 「その3年間何もなかったの?」 「なかったよ。仕事覚えるのに必死だったからね。最近ようやく落ち着いてきたくらいだし。だから、今ならちゃんとまどかさんのこと優先できるよ」  スーツ姿の彼が優しく微笑んでそんなことを言うものだから、いつもよりも逞しく見えた。 「ゆ、優先はしなくていいよ。仕事大事だし……」 「うん。でも、クリスマスも記念日もちゃんとやりたいね。まどかさん、あんまりそういうのやったことないんでしょ?」 「うん……」 「まどかさんがやったことないこと、一緒にしたい。今までの彼氏ができなかったこと、俺にさせて。歴代の彼氏で1番になりたい」 「……何それ」  輝かしい笑顔で言う彼の言葉に呆然としていると「ねぇ、今子供みたいなこと言ってるって思ったでしょ!」と眉をひそめて彼は言った。 「思ってないよ」 「いいや、思った! 馬鹿にしたような顔してたもん」 「してないよ!」 「してた!」  さっきまでの逞しい彼はどこにいってしまったのか、また子供のように拗ねたふりをする彼の仕草に笑いが止まらない。  ドキドキさせられたり、笑わせられたり、この子といると本当に色んな感情が溢れ出て絶えない。
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