師走

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 名残惜しい彼の背中を見送って、小さな溜め息をつく。  お酒さえ飲んでいなければ、いつものように私の車で彼の車まで送って行ったのに。彼が、帰りに1人で歩いて帰ることになるのは危ないからと一緒に車まで歩いていくのを断ったのだ。  玄関のドアが閉まると一気に不安が押し寄せた。けれど、彼がまた戻ってくると言ってくれたことが救いだった。  本来だったら、彼は明日の昼過ぎにくる予定だった。何か用事があって午後にしたのか、休みの日はゆっくりしたくてそうしたのかはわからない。けれど、それよりも私の我が儘を優先させてくれた。  これが雅臣だったのなら、何がなんでも自分の時間を優先させたことだろう。そもそも、雅臣が相手だったのなら、自分から引き留めはしなかったのだけれど。 「あまねくん……」  彼の名前をそっと呟いてみる。エアコンのファンの音だけが響いている中、彼の名前ははっきりと私の耳まで届く。  先程までの会話も、艶やかな彼の姿も、彼に触れられた感触も思い出す。 「あー……。どうしよう、ドキドキする……」  独り言を言いながら、その場にしゃがみこむ。膝頭に目元を押し付けて、彼の残像を追う。 「かっこよすぎる、可愛すぎる、優しすぎる、素敵すぎる……」  何もかもが理想を凌駕している気がして、自分の中に落としきれない幸福感が溢れ出る。  こんなにも一緒にいたくて、愛されたくて、好きな気持ちがだだもれてしまうことなんて30年以上生きてきて1度もなかった。  他のカップル達は、毎日こんな幸福感を背負っていきているのだろうか。  こんなに毎日ドキドキさせられたら、本当に身がもたないかもしれない。そう思うのに、一方では離れたくなくて、その苦しい程のときめきをずっと感じていたいと思う。  俗に恋患いというけれど、これは確かに大病だ。人を好きになって、相手の反応に一喜一憂して、きっと仕事にだって影響する。  雅臣の浮気の件で、仕事に身が入らなかったこともあった。しかし、これ程までに心の全てを持っていかれるような心情には至らなかった。私は今、本気で恋愛をしているのだと自信をもって言える。  玄関でしゃがみこんでいたために寒くなってしまい、身震いしながらリビングに戻る。  その途中でふと思う。雅臣の隣にいた女の子は、とても楽しそうに笑っていた。腕を組んで、キャリーバックを引きずって。  車内ではキスをして幸せそうだった。あの子は、私があまねくんをこんなにも好きなように、雅臣のことを好きなのかもしれない。  私は、自分があまねくんを好きなのと同じくらい、彼にも私を愛して欲しいと思う。それはきっとあの子だって同じはずだ。雅臣の浮気は許せないけれど、あれが本気の恋ならば、理屈では説明できないこの感情をもった相手の女の子を責めることはできない。  ただ、雅臣が私との結婚をもう考えていないということは理解できたが、それでも私と別れずにあの子とも付き合っている現状は、やはり理解し難いものであった。  私が、あまねくんと付き合うのなら雅臣とのしがらみから解放されたいと願うように、新しい恋に真っ直ぐになりたいのなら、今ある過去の恋は足枷でしかないような気がするのだ。雅臣が何を考えているのかわからなかった。  私は、電源を落としていたスマホを点ける。着信の知らせも、メッセージも想像通り無数に届いていた。  あまねくんが側にいた時には、あんなにもこの存在に怯えていたのに、いざ1人になってみてあまねくんのことをこんなにも好きな自分を肯定したら、気持ちが大きく、強くなれた気がした。  あまねくんとちゃんと向き合っていくためにも、雅臣とのことをはっきりさせなければならない。
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