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過去
海の日を再来週に控えた土曜日の夜。朝比奈は町田を自宅に呼んだ。
「……町田さん、暑くないですか」
夏日なのに、町田はブラックスーツを着ている。いくら日が落ちたといっても、まだ気温も湿度も高いのに。
朝比奈は町田が来る直前まで、タンクトップにハーフパンツだった。さすがにだらしないので、半袖シャツとジーンズに着替えた。
部屋に招き入れたあと、上着を脱ぐように促したのに町田は首を振った。
「僕は、上着を着ていないとだめなんだ」
(仕事相手だから服装は崩さないという意味かな?)
ここ数日、毎日のように町田に会っている。
たくさん打ち合わせをしたいと言い出したのは朝比奈だ。
単なる口実だというのに、町田はいつでも応じてくれた。
しかし、町田が上着を脱いだことは一度もない。
テーブルの前に座った町田に、麦茶を出した。口をつける町田を見ながら、朝比奈はため息をついた。
「なんで今日もグレイのシャツなんですか。色白の町田さんは絶対、白が似合うのに」
「きみはいつもそう言うね」
「はい。俺が脱がせて着せてやりたいです」
「うわあ、まじめな顔で危ない発言をしたな」
町田は笑い声を上げた。
何回も会うようになって町田はよく笑うようになった。笑顔を見たいから、朝比奈はいつも冗談を言っている。
(反応はいいけどまだ距離があるな)
そう思いながら、町田の笑顔を見つめた。
「今日、ポスターが刷り上がったんだ」
町田は持ってきた筒状のケースからA3判のポスターを取り出した。
水色のグラデーションをバックに、朝比奈が立っている。黒いタンクトップにジーンズという格好だ。
「ほら、かっこよく写っている」
写真の中の朝比奈は、唇をきつく結び、鋭い目をしている。
確かに表情がいい。燃え上がる闘志が写真に表れている。
書道雑誌に載った写真よりもずっと好きだ。
ポスター撮影のときは町田も同行した。
『目の前にこれから書く紙をイメージして』
町田の指示はそれだけだった。たったひとことで表情がよくなった。
「ええ、実物よりもよく写っています」
「実物がいいからよく写ったんだろ」
(……何て返せばいいんだ!? ドキドキし過ぎて……わからない……)
ここ数日つきあってわかった。
町田はお世辞を言わない。心からの本音で相手を気持ちよくさせる。
町田と話していると自分が浄化されたような気分になっていく。腹の中に貯めている毒が中和されていくように感じる。
壁の振り子時計が鳴った。時刻は七時を知らせている。
話し込んでいたら町田の帰りが遅れる。朝比奈は立ち上がった。
「町田さん、書を見てくれませんか」
今日はイベント当日に書く作品の相談がしたくて、町田を家に招いた。
「そうだな、行こうか」
町田は正座したまま、ポスターを丸めた。そのとき気づいた。
町田の首筋に汗が光っている。歩いて暑かったのだろう。町田がポスターをしまっている間に洗面所へ行き、タオルを取った。
「ほら、風邪を引きますよ」
「ありがとう」
タオルを差し出すと、町田は汗を押さえつけるようにして拭った。しゃがんで町田の顔を覗き込む。
いつもより元気がないような気がする。シャツどころか上着も汗で湿っているのかもしれない。
「やっぱり上着だけでも脱いだらどうですか」
町田は目を見開き、大きく首を振った。
「いや、いい。それよりも書を見せてくれ」
タオルをたたむと町田は立ち上がった。別に裸になれとは言っていない。どうして驚くのか、朝比奈にはわからなかった。
ふすまの向こうにある和室に向かった。
一歩、足を踏み入れると、町田は深呼吸をした。
「ああ、書家の匂いがする」
墨には膠という物質が含まれる。生き物の骨や腱などが原料だ。だからなのか墨を毎日磨ると、獣の汗のようなすえた匂いが部屋に染みつく。
「俺からも匂っていますよ、きっと」
「どれどれ」
突然、町田が朝比奈の首筋に顔を寄せる。そんなこと、全く期待していなかった。あまりにも近づきすぎるから、町田の鼻先が朝比奈の肌につく。
「本当だ。朝比奈くんは立派な書道家だな」
「……う」
間近にある町田の顔を見て、よからぬ想像をしてしまう。
汗が引かないのか、町田の顔は赤い。瞳も潤んでいるような気がする。
まるで情事のあとのように見えた。
(何を考えているんだ、俺は)
「それじゃ、書きます」
朝比奈は町田から離れ、書の準備をした。咄嗟の返しができなかった。胸をざわつかせるようなことを町田はよくする。町田のさりげない仕草やたったひとことで、朝比奈は舞い上がってしまう。
(天然は強い。筋肉を鍛えた男よりも)
町田に出会ってからそう実感した。
水で書ける大きな紙や筆を用意していると、町田が隣に座った。朝比奈と同じく正座をしている。ふたりは何も言わなかった。筆に充分な水を含ませて、朝比奈は書き始めた。
『あなたのおかげで今の俺がいる ありがとう 俺と出会ってくれて』
そこまで書いて息を吐くと、朝比奈は筆を置いた。
「このあとが、うまくまとまらないんだよなあ」
「でもよく書けているよ。親が我が子に感謝しているというのが表れている」
「……それは、ちょっとショックだな」
「そうか。僕はいいと思うけどな」
(町田さんと巡り会えたことを書いているのに……これだけでは伝わらないのか……)
紙が乾いて字が消えると、朝比奈はふたたび書いた。
何度も同じ言葉を書く朝比奈に気づかったのか、町田がやさしい声で話しかける。
「二、三回繰り返して書くのはどうだろう? 字の大きさや書体を言葉ごとに変えたら、インパクトがあるかも」
「もう少し考えてみます。まだ俺の心を書いていないから」
どんな言葉を紡げば、あふれる思いを町田に届けられるのだろう。言いようのない思いだから、書くことなんてできないのか。いや、だからこそ形にする。朝比奈は無言で書きつづけた。書けば、新しい言葉が浮かんでくるかもしれない。
数十回書いたとき、町田が寄りかかってきた。
「町田さん? ……あつっ!」
肩に触れる町田の額が、異様に熱い。筆を置くと、町田の額に手を当てた。太陽に照らされた金属のように熱がこもっている。
「町田さん、町田さん!」
「うん、ん……」
頬を叩いたけれど、はっきり返事をしない。瞳を閉じたままぐったりしている。
(もしかして熱中症なのか?)
町田を壁に寄りかからせる。茶の間へ行きタオルを取った。台所で絞る。和室に戻るときに麦茶のコップを取った。
「町田さん、飲める?」
抱き起こして麦茶を飲ませようとした。コップを両手で持って町田は口に運ぶ。麦茶が零れ町田の首筋を濡らした。シャツの襟元に染みができる。
朝比奈は町田のネクタイを外した。上着を脱がせ、シャツのボタンに手をかけようとしたとき、町田が声を上げる。身を捩って抵抗した。
「いや、いやだ、やめてくれ……」
「おとなしくしてください。熱がこもっているから脱がないと」
弱々しく朝比奈の腕を掴み、町田は首を振る。
「見ないでくれ、頼む……頼むから」
町田の言葉を無視してシャツに手をかけた。すべてのボタンを外し、前を広げる。
朝比奈は息を呑んだ。
肌が赤い。右胸から二の腕にかけて皮膚の色が違う。目を閉じたまま、町田は朝比奈の胸元を掴んだ。手が震えている。
「だから、見るなって言ったんだ……」
(いつも長袖を着ていたのは、これが理由なのか。火傷の痕を人に晒したくなかったのか)
朝比奈は町田の首筋にタオルを当てた。反対の手で町田の肩を強く掴む。
「朝比奈くん?」
「今は、とにかく冷やしましょう」
他に、何も言えなかった。
気にするな。大したことではない。そんな簡単な言葉はかけられない。支えたいのに、言うべき言葉が出てこない。
町田を胸に抱き寄せた。せめて自分の温もりだけでも伝えたかった。
―――
町田の症状が落ち着いてきたので、抱き上げて寝室に運んだ。布団を引いて寝かせる。濡らしたタオルを額に乗せた。
「今夜は泊まっていってください。また倒れたら、危険だから」
「ありがとう……」
小さな声で答えると町田は目を閉じた。
顔は赤くないし、呼吸も規則正しい。一晩眠れば回復するだろう。
床に落ちてあったうちわで町田をあおいだ。寝る前に朝比奈が使っているものだ。近所のスーパーでもらったものだけど、涼むにはこれで充分だ。
「きっと、疲れもあったんですよ。もう少しで本番だから」
薄着をしないせいだとは言わなかった。そんな叱り方をするのは酷だ。町田を追い込んでしまう。
うちわを置いて、町田の腰の辺りまでタオルケットをかけた。
露わになっている胸元に目がいってしまう。左の胸は白いのに、右は桜色になっている。胸の突起も、右のほうが黒っぽく見えた。思わず、唇を噛み締めた。
(もう見たけど、隠してあげたほうがいいな)
黙って町田のシャツのボタンをはめていく。
鎖骨の下のボタンに手をかけたとき、腕を掴まれた。
タオルがシーツの上に落ちる。
「聞かなくていいのか」
「町田さんが言いたくなるまで待ちます」
「それなら、話すから返事はしないでくれ」
町田が天井を見たまま、口を開いた。ここではないもっと遠くを見つめるような、ぼんやりとしたまなざしになっている。
「中学の調理実習で、熱湯を被った」
なぜか、町田は笑っている。
「庇ったんだ、クラスの女子を。髪の短い小さな子だったな。僕を見てずっと泣いていた。入院しているときも毎日来てくれた」
笑うことで、悲しみを振り払おうとしているように見えた。
(そんな顔、してほしくない……)
町田の胸に広がる痕を撫でた。湯を被り苦しそうに唸る町田が、生々しく頭に浮かぶ。
「熱かったですよね、すごく」
「返事するなって言っただろ」
朝比奈の手の上に、町田が手をかさねてきた。そのまま、ふたりで町田の胸を撫でた。
「熱いというより痛かったな。血が出ているのかと思った。それから、書けなくなった」
「書道が?」
「ああ」
初めて、町田はつらそうな顔をした。
「書こうとしたら腕が引きつる。医師に話したら、腕は治っている、精神的なものだろうって言われた。でも、いくら書いても、手が震えて、震えて……」
町田はタオルを取って、自分の目にかけた。
「もう終わりなのかなって思って……僕は、やめた。それ以来、筆は持っていない。学校の書道の授業もサボっていた」
今まで積み重ねてきたものが崩れたのだ。きっと、もどかしかっただろう。朝比奈だって、書けないと感じるときはある。でも、いつかは抜け出せると心のどこかで思っている。
町田は、突然、暗闇に放り投げだされたのだ。今まで歩いてきた道を失ったのだ。同じ書道をしているから、そのことの恐ろしさはわかる。
わかるから、朝比奈は目を逸らすようにしていた。
いつか書けなくなりどうしようもなくなったら、何が待っているのか。
考えると、出口のない不安に陥る。だから、起こるとしたら遠い先のこと、いや、もしかしたら永遠に起こらないかもしれないと夢想している。
二十二歳の朝比奈が恐れていることを、町田は十代で味わってしまった。
小さな躯をめいっぱい使って書いていた、かつての町田の姿が頭をよぎる。書くことの喜びが体中にあふれていた。
あの頃のまま、何も暗いところを知らずに町田は大きくなったのだと思っていた。だから、汚れを知らぬ少女のように笑える。でもそれは、朝比奈が作り出した姿だった。
再会したときから、町田が上着を脱いだことはない。
ずっと傷を抱えていたのに、朝比奈が気づかなかっただけだった。
近づきたいとか、壁を壊したいとか、身勝手な欲で動いていて、笑顔の奥を見ていなかった。
タオルを外すと、町田は朝比奈の手を取った。
濡れたタオルをかけていたせいか、町田の瞳は潤んでいる。
「朝比奈くんはすごいな。小さいときから、ずっと続けてこられたんだ」
首を振るのがやっとだった。
書を学んで十六年が経つが、楽しいことばかりではなかった。書けないと言って泣いたこともある。
でも、もうできないと気づいて泣くよりも、ずっとあまい涙だっただろう。続けることなんて、すごくはない。
やめるほうがずっとつらい。
もう片方の手が伸び、朝比奈のシャツのボタンを外していく。三つほど開けると、町田は朝比奈の肌に手を滑らせた。
「いいな、傷ひとつない。触っていいか?」
「ええ、俺の躯でよければ」
残りのボタンをすべて外した。町田の手を掴み、自分の肌へ導いた。胸の筋肉に沿って、町田の手が動く。
「きみの躯が欲しい」
穏やかな声だが重いひとことだった。
(町田さんに与えられるのなら、この躯くらい分けられる。町田さんが笑っていられるのなら構わない)
そう願うけれど、絶対に無理なことだ。
タオルケットを剥ぐと、町田の隣へ身を滑らせた。
両腕で、自分の胸元へ町田を引き寄せる。腕の中で、町田はくすぐったそうな声を上げた。
「何するんだ、いきなり」
泣きもせず、叫びもしない町田を抱きしめてやりたかった。
きっと、感情を表す時期はとっくに越えていて、冷えた悲しみだけが残っているのだろう。
(いっそ泣いてくれたら、涙を拭ってやれるのに……叫びたいのなら、声が枯れるまでつきあえるのに……)
でも、悲しみを外へ表さないのなら、抱きしめることしかできない。
朝比奈の腕の中で、町田が呟いた。
「……書けなくなったのは、仕方なかったことだ。そう思うことにしている」
やけに軽い言い方だった。
自分の身に起こった出来事なのに他人事のように言う。
(そんな簡単な言葉で言い切れるものなのかな)
不意に道を断ち切られたのに、淡々としている。
「ずっと書いてきたから、やめるときはつらかったんじゃないですか。俺だったら、イライラして当たり散らしたかもしれないな」
「そんなことはしなかった。何をしたって、書けないのは変わらない」
静かな声が部屋に響いた。
すべての感情をなくしたような声だった。
(ああ、そうか。町田さんは何もかも、全身で受け止めたのか)
火傷のことも書けなくなったことも、宿命であるかのように平然と受け入れていったのだろう。
心が荒れても、細い躯で耐えたのだ。泣くことさえ許さなかったかもしれない。
何があっても変わらずに過ごす。人として正しい対処だろう。
でも、戸惑いに身を任せたほうが楽になれたはずだ。乱れた気持ちが熱湯のように沸いて、気が済めば蒸発する。
「僕はときどき、きみに嫉妬する。知らなかっただろ」
目をつぶり、町田は苦しそうな顔をした。
「筆を持つきみを見ていると、心がかき乱される。こんなに気持ち、捨てなくてはいけない」
「捨てなくていいんですよ」
「いや、考えてはいけないことだ」
町田は強く否定した。負の感情と町田は向き合っている。
素直だからできるのだろう。
潔癖すぎるくらいだ。
朝比奈は違う。暗い気持ちが湧き上がってきたら、そのまま飼いならす。考えてはいけないとまでは思っていない。
「このままだと、どんどん悔しくなって、きみを嫌いになりそうだ。いい人だと思っているのに、それなのに……」
「俺、そんなにいい人ではないですよ。頭の中ではずるがしこいことを考えています」
町田が笑みを洩らした。首を振ると、朝比奈の背に腕を回してくる。
「きみは自分の魅力を知らないんだな。親しくない僕を家に泊めるなんて、いい人に決まっているじゃないか。他にも、かっこいいところが……」
少しずつ、町田の声が小さくなっていく。眠くなってきたのだろう。幼子をあやすように、朝比奈は町田の背をゆっくり叩いた。
腕の中で誰かが眠るなんて、初めての体験だった。胸に町田の吐息がかかって、くすぐったい。身を寄せてくる町田の温もりが心地よい。
(人肌って、こんなに安らげるものなのか)
生きている者を抱く。
ただそれだけのことなのに、いつもより穏やかな夜だと感じる。時間の許す限り、町田の傍にいたい。
「ん……」
朝比奈が強く抱いたからか、町田が躯を動かした。驚いて腕の力を弱めると、町田は再び深い眠りについた。
朝比奈は眠らなかった。
さきほど火傷の原因を話していた町田の顔が忘れられない。笑うことで、あの不幸はたいしたことではないと思い込もうとしているのではないか。
(あんな笑い方はしてほしくない)
町田には、楽しいとき、うれしいときに笑ってほしい。
(どうすれば、町田さんは笑ってくれるのだろう。再会したときのように、純真な笑みを見たい。俺にできることはないのだろうか……)
海の日のイベントで、町田への想いを書こうとした。
(それだけでいいのか。胸に秘めた想いをぶちまけて、自己満足に浸るだけにならないか。もっと、町田さんのために何かをしたい。与えられた仕事をこなすだけでは足りない)
大きく息を吐くと、町田の髪に顔を埋めた。
少し甘いシャンプーの香りを嗅いだ。
町田が目覚めないよう、少しずつ腕に力を込める。
町田へ抱いた好意は噴き上がらない。そう思っていた。確かに噴き上がらなかった。
でも、想いが大きくなっているとは気づかなかった。きっと静かに降り積もっていたのだろう。
もう、心という器からあふれているのかもしれない。
町田の寝顔を見ていると、唇を味わいたくなってしまう。男同士であることも枷にはならない。自分は非常識な人間なのだろうか。
叶わぬ恋かもしれない。それでもいい。
町田の悲しみを解放してやりたい。願うのはただそれだけだ。
町田が笑ってくれるだけで、愛をもらえたと感じられる。
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