再会

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再会

踊るように肉体を操る。 それだけを意識して、朝比奈亮太(あさひなりょうた)は紙に立ち向かった。 目の前にある紙は六尺――畳一枚とほぼ同じ大きさだ。手にする筆は赤子の腕くらいの太さだ。反対の手には、墨が入ったボウルを持っている。 圧倒的な白に飲み込まれないよう、深く息を吸う。筆に墨をつけながら、間合いをはかる。 下半身を落とし、四股を踏むかのように深く沈む。尻の筋肉が固く引き締まっていく。手首からひじ、肩から腰、そして膝。しなやかに関節を使い、紙の上に筆を走らせる。 ホールの外は雨が降っている。今年の夏はここ札幌でも雨が続いている。北海道らしくない天気だ。 若さあふれる(からだ)を存分に生かし、朝比奈は書を書く。観客は中高年の女性ばかりだ。ほとんどの人が扇子やハンカチをあおいでいる。 書とともに歩いてきた十六年の力を、朝比奈は筆に込め、紙に叩きつけた。 艶のある墨の軌跡は、己の生きざまでもある。 一行を書き終え、ふたたび墨を筆に含ませたとき気づいた。 誰かが、手拍子を取っている。思わず顔を上げた。 女性たちに混じって、ひとりの若い男がいた。 男はブラックスーツとグレイのシャツを着ている。藍色のネクタイをゆるめずに締めていた。 まっすぐに朝比奈を見て、ゆっくりとした調子で手を叩く。 ひとり、ふたりと、観客が男に手拍子を合わせる。強弱のある大きな音が、朝比奈を包んだ。 朝比奈を見つめ、男が頷いた。 『きみならできる』 ゆらぎのない強いまなざしが、そう語っているように思えた。 人々が作るリズムに乗って、朝比奈は筆を動かした。 ――― タオルで顔を拭うと、朝比奈は息を吐いた。書を仕上げると汗が吹き出る。まるでひとっ走りしてきたようになる。あとでTシャツを取り替えよう。 まさに、『筋肉書道家』だ。先週の書道雑誌の記事を、朝比奈は思い出した。 (あれは本当にうまいネーミングだ。憎らしいほどに) 書道展の紹介でインタビューに応じた。写真を撮るときに、上半身裸になってほしいと言われ、変だなと思いつつ従った。 できあがった雑誌の見出しにショックを受けた。 『これぞ雄の書! 筋肉書道家、朝比奈友永(ゆうえい)』 友永とは朝比奈の雅号だ。書道のときはこの名前を使っている。 雑誌には、作品の横で、腕を曲げて大胸筋をアピールする朝比奈が載っている。 ストロボのせいで日焼けした肌がオイルで塗ったように光っている。躯が冷えたらしく乳首が両方とも立っている。カメラマンの指示通り歯を見せて笑ったら、何も考えていないような笑みになった。 (これじゃあ、ただのマッチョなバカではないか。ダンベルを持ちながら書いていると読者に思われてしまう) しかし、記事のおかげで書展は大成功だ。初日に行われたこのパフォーマンスにも、たくさんの人が来てくれた。初めての個展だから、どれだけの人が来るか心配だった。 たとえ熟女ばかりでもありがたい。 (書と筋肉、どちらが目当てかはわからないけれど) タオルを首にかけ、自分の書を見た。 『雨垂れ石を穿つ』 今の自分にはこの言葉がふさわしい。それに、今日の天気にも合っている。一歩下がって、書を見つめた。 迷いのない芯のある字に仕上がっている。充分なゆとりもある。 (全力は出せた。でも、もっとうまくなりたい) ふと浮かんだ感想に笑ってしまった。 すぐにタオルで口元を隠す。ゆるんだ顔をしていれば、不真面目な奴だと見物客は思うだろう。 書き終わったあとは、いつも同じことを考えている。そう気づいたら、なんだかおかしくなった。 (向上心なんかではない。貪欲なだけだ) いつだって、煮えたぎるマグマのような執念と不満が、腹の底を流れている。 その熱に駆り立てられ、書道を続けてきた。今のレベルに満足することは決してなかった。書の表現には終わりがない。 自分にとって最高の出来でも、書を極めたことにはならない。 理想に近づいたと思えばその姿は遠ざかる。手に入れたいので更に己を磨く。 追いかけっこをするうちに、朝比奈は二十二歳になり書道家になっていた。 非凡な才能などなかった。もっとうまい人間は大勢いた。自分はただ底辺から這い上がっただけだと自覚している。 女性たちがデジタルカメラや携帯電話で、朝比奈の書を写している。ひとりが話しかけてきた。 「友永ちゃん、いっしょに撮って」 「あら、あたしが先よ」 「友永ちゃんって、すごい筋肉ね」 「うわっ!」 突然、腕を握られた。朝比奈は飛び上がった。女性たちが騒ぎ出す。 「ちょっと、ずるいじゃないの」 「いいでしょ。こんなたくましい男、めったにいないんだからさ」 「順番よ、順番に触りましょう」 次々と女性たちがタッチしてくる。何度も触って歓声を上げる女性もいた。 どの女性も甘酸っぱい匂いがする。みんな、めんたいこみたいな真っ赤な色の口紅をつけていた。いくつになっても女性はおしゃれするのかと朝比奈は想った。 未だかつて、これほど女にちやほやされたことはない。 この雅号は三年前から名乗っているけれど、ちゃんづけで呼ばれたことは一度もなかった。 彼女たちは朝比奈を、息子や孫、もしくは、かわいいペットのように思っているのかもしれない。 たくさんの女性に囲まれたらどうすればいいのだろう。女性と縁のない日々を過ごしているから扱い方がわからない。 「ああ、困ったな」 「みんな、きみがかっこいいから大好きになったんだ。困ることはない」 背後で声がした。振り向くと、スーツを着た男が立っていた。さきほど手拍子を送ってくれた男性だ。 男を見て女性たちが静まった。 朝比奈の腕を掴んでいた女性が手を離す。 「あら、男前……」 微笑む男に女性たちは目を奪われている。 さっきは遠くにいたから男の顔がよく見えなかった。 (確かに、男前だ) 持って生まれたものが違うと感じた。 眉がゆるくカーブしていてやさしそうに見える。一重の目なのに、黒目がきらきらしているから惹きつけられる。鼻と口のパーツが小さくて主張しすぎない。おまけに、キメ細やかな肌をしている。 朝比奈と背はそんなに変わらないが、横幅が全く違う。力を込めて抱きしめれば、折れてしまうのではないかというくらい線の細い男だった。 男は朝比奈をじっと見つめた。 いきなり注がれた熱い視線に、朝比奈は戸惑った。 「きみはいい躯をしているな」 「……あ、ありがとうございます」 ジムへ行くこともあるし、日々の筋力トレーニングも欠かさない。毎日の積み重ねでたくましくなれる。努力をすれば結果に現れるのは、書道と通じるところがある。だから躯を動かすのは好きだ。 「書も男くさいというか荒々しい感じでいい。雑誌で見たときから見栄えがすると思っていた。期待以上だ」 この男は記事を見たのか。能天気な顔で写っていた自分の写真を朝比奈は思い出した。 筋肉は、思っていた以上に世間に受けるものなのか。 突然、男が朝比奈の腕を掴んだ。 興奮しているのか瞳が潤んでいる。きらきらした表情だ。 (おいおい、なんでときめいてるんだ?) 「決めた。僕はきみがいい。きみしかいない」 朝比奈は固まった。女性たちが甲高い声を上げる。 「ちょっとやだ、プロポーズよ!」 「近頃の子は大胆ねえ」 楽しそうな女性たちの声が頭に響いた。 さっき拭いた汗がまた出てきた。完全に口説かれている。遠まわしなアプローチではない。 きっと、見た目通りのさわやかな男だと思って惚れてしまったのだろう。 朝比奈は大きく息を吐いた。 躯の芯から火照ってくる。 告白されるなんて人生初だから、花が咲いたように舞い上がってしまう。 しかし、はしゃぐのはみっともない。なんとか平静を保っている。 うれしくても、なんでもこいというわけにはいかない。つきあってからこんな男だと知らなかったと泣かれるくらいなら、断ったほうがいい。 できるだけやさしい声で、男に話しかけた。 「あの、俺みたいのが好みなんですか」 「え?」 意味がわからなかったのか男は不思議そうな顔をした。 「俺、あなたが思うほど明るい奴じゃないですよ。結構、黒いところだってある。そりゃあ、好きになってくれるのはうれしいけどさ、いきなりは……」 「待ってくれ、ストップ、ストップ」 男は朝比奈の腕を強く握った。まるで子供が親に縋るような仕草だった。 「……あ、すまない」 慌てて男は朝比奈を離した。 「誤解させたみたいだな。僕は、言葉が足りないってよく言われるんだ。またやってしまった」 男は息を吐いてこめかみを押さえた。頬を赤くしている。 「仕事の依頼だ。きみに書を書いてほしい」 言いながら、男は上着のポケットから名刺入れを取り出す。 「僕は北斗鉄道の……」 朝比奈は名刺を受け取って、男の名前を読んだ。 「町田(まちだ)……秀介(しゅうすけ)って、ええっ!」 「どうしてそんなに驚く? 町田なんてよくある名前だろ」 町田の言葉に朝比奈は首を振った。 町田秀介。 それは朝比奈が幼い頃から追いかけてきた、理想そのものだった。 ――― 町田の提案で、ホールの喫茶室で話をすることになった。 町田は鉄道会社の開発事業部に勤めているらしい。開発事業部とは、駅の商業展開や催し物を企画する部署だそうだ。町田は札幌駅を担当していると言う。 「駅前に広場ができただろ。そのイベントとして一筆頼みたい。晴れた空の下で、音楽を流しながら書いてほしい」 席に座ると同時に、町田が口を開く。ウェイトレスが歩いてきて町田の横に立った。 町田は全く気づいていないらしく、真正面に座る朝比奈だけを見ている。頷きながらも朝比奈は、ウェイトレスを手で差した。 「町田さん、まずは何か頼んで……うわっ」 両手で手を握られた。 細くしなやかな手なのに、町田はかなり握力がある。 手を引っ込めようとしたら、町田が身を乗り出してきた。 「初めて見たときからいいと思っていた。朝比奈くん、きみじゃなきゃいやだ。お願いします」 (だから、あんた、そのプロポーズまがいの台詞をやめろよ) ウェイトレスがふたりを見て顔を赤くしている。 男が男を口説いていると思っているのだろう。 「きみの書は、夏の暑さに負けない迫力がある。それに男らしくていい体格だ。見た目よし、作品よし、最高だ。みんな、きみに注目する」 「そこまで言われると、なんか、照れるな」 「謙遜しなくていい。本当のことだ」 (謙遜じゃなくて、恥ずかしいんだよ! そのきらきらした瞳で見つめられるのが!) 町田は顔がいいから、愛を誓う王子様のように見えてくる。 「……だめ、なのか?」 そのひとことで、朝比奈は吹き出しそうになった。強引に話を進めていると思ったら、今更になってためらっている。 やっぱり、町田は楽しい男だ。何かを企むような人間ではないのだろう、きっと。 貴重な存在だ。 大人になってもひたむきでまっすぐのままでいられる。その尊さはよくわかっている。朝比奈自身が、笑顔の下であれこれと考える人間だからだ。 「いえ、やります」 もっと町田に近づきたい。もちろん仕事も魅力的だけど、それ以上に、町田という男に惹きつけられる。 「よかった! いっしょにがんばっていこう、朝比奈くん」 町田は心底うれしそうな顔をした。朝比奈の手を握ったまま、椅子に座り直す。 「あ……」 ようやくウェイトレスに気づいたようだ。町田は手を離すと下を向いてしまった。そのまま俯いているので、朝比奈が注文をする。 「町田さんもアイスコーヒーでいいですか」 はい、とだけ町田は言った。ウェイトレスが去ると呟く。 「全然わからなかった。ずっと、僕たちを見ていたのか」 赤くなった自分の頬に手を押し当てている。しばらく息をしてから、表情を引き締めた。 「それで日程だが……」 完全に、仕事の顔になっていた。 (さすがに大人だな。切り替えが早い) 感心したけれど、さっきまでの町田の顔が忘れられない。初デートに来た女の子のようだった。 イベントは一ヵ月後、海の日に行われる。雨が降ってもテントを張って実行すると町田は言った。今日よりも大きい紙に書くらしい。条件があると町田は言う。 「書いてもらうのはオリジナルの言葉だ。ことわざや詩は使わないでくれ」 「言葉ということは、一文字や熟語はだめですよね。『愛』とか『勇気』とか」 「そうだ。音楽は二分弱かかるから、長い文がいい」 町田は自分の胸を軽く叩く。 「きみの心からの思いを書いてくれ。さっきみたいに、素直な気持ちで挑んでほしい」 「へえ、あれが素直に見えたんですか、町田さんは」 「ああ」 大きく頷くと、町田は顔をほころばせた。 「堂々としていて、見ているだけで晴れやかな気持ちになった。まじめに書道をしてきた人だって思った」 朝比奈は目を細めて苦笑いをした。町田は朝比奈の意図に気づかないらしく、にこやかに微笑んでいる。 (本当は、そんな男じゃないんだけどな) 今日は、躯のラインが出るように細身のTシャツを着ている。ジーンズは親しみやすくても中高年には受けないので、黒くてやわらかい生地のパンツを選んだ。この日のために、理髪店で眉を整えた。 もちろん肝心なのは書だが、人前で書くのだから姿形も大切な要素だ。自分の外見は利用してやる。いろいろと計算しているのに、町田には悟られていないようだ。 堂々として、まじめ。 見に来ていた女性たちも大方、そんな印象を抱いただろう。受け入れてもらえたという安堵感とともに、やはり裏の自分を見せてはいけないなと身に沁みて感じた。 小賢しいことなのかもしれない。愛想よくしながらも、腹では相手の反応を窺っている。屈折した自分をいやになることはない。でも本音を知ったら、周囲は距離を取りたがるだろう。 町田も裏切られたような気持ちになるに違いない。 彼が仕事で求めているのは、あくまでもさわやかな朝比奈だ。計算し尽くし、表と裏の顔を使い分ける朝比奈ではない。 (うっかりぼろを出さないようにしよう) そう思っていると町田と目が合った。町田は気さくに笑う。 「期待している」 「はい……」 思わず視線を逸らした。町田にはすべて見透かされそうだ。邪気のない瞳で見つめられていると、懺悔したくなるような気持ちになってくる。 話題を変えて、心を落ち着けようと思った。 町田に会ったときから気になっていることを口にする。 「町田さんも、書道を習っていましたよね」 「そうだけど、どうしてわかったんだ?」 「テキストですよ。子供時代に、町田さんの名前はよく見かけました」 「ああ、きみも北海道書道会の出身か」 朝比奈は頷いた。書道会では道内共通のテキストが使われる。町田は朝比奈よりふたつ年上で、確か函館の書道塾の生徒だったと思う。 「月一の課題では必ず佳作以上になるから覚えましたよ。夏のコンクールの特別賞一席も、いつも町田さん。あれは刺激になりました。それに……」 「朝比奈くん、今はきみの話をしよう」 町田は微笑んでいるが、どこか痛みを抱えているような顔をしている。明らかに話題を変えたがっている。 「すみません、脱線してしまいました」 (もっとこの話がしたいけれど、やめておいたほうがいいな) 「思い出なんか語っていられないですよね」 「そうだ……もう忘れないといけない、昔のことだ」 右の二の腕を押さえると、町田は目を閉じた。 (忘れるって、書のことを記憶から消し去りたいのだろうか) 尋ねてみたいが、それができるほど朝比奈たちはまだ親しくはない。それからふたりは、仕事のことだけを話した。 別れるまで町田が笑うことはなかった。 朝比奈は町田をホールの入り口まで見送った。 黒い傘を差して、町田は歩いていく。 心にまで染みてきそうな静かな雨が降っている。朝比奈は町田の後ろ姿を見つめた。 (町田さん、俺たちはね、一度だけ会っているんですよ) さっきはそう伝えたかった。 (でもそれも、町田さんにとっては忘れたいことなのか。今すぐ、雨の中を飛び出して、町田さんの肩を掴みたい) 『あなたのおかげで歩いてこられた人間がここにいる。昔のことなんて言うな!』 (そう叫べば、町田さんはまた、少女のように笑ってくれるだろうか……) 日が落ちた頃、地下鉄に乗って朝比奈は帰宅した。 座席に座ると、ドラム型のバッグを膝に乗せた。バッグの中には、今日使った筆やボウル、毛氈(もうせん)などが入っている。毛氈とは紙の下に敷く織物で、書道では欠かせない。今日は紙が大きかったので、たくさんの毛氈をテープでつないだ。 個展は明日もある。駐車場誘導員のバイトのあとで行くつもりだ。 書の依頼もそれなりにあるが収入は不安定だ。道具代や書道展の出品料を捻出するために朝比奈は週に四回バイトをしている。 もっと働けば、将来開く予定の書道塾の資金がすぐに貯まるだろう。しかし、書を学ぶ時間は極力減らしたくない。 目を閉じて、頭の中で数字をはじく。 今日パフォーマンスで書いた書は、ぜひとも表装したい。 書道作品は紙に書かれているから耐久性がない。補強と装飾のために、作品を厚く加工して上下に紙を張る。日本画のような掛け軸になる。この裏打ちと呼ばれる作業を、表具屋に頼まなければならない。 貯金からいくら出せるか計算していると、どうしても作品につける紙のことを考えてしまう。当然、質がよいほど高い。さまざまな色と柄の紙が浮かんでくる。 金箔つきの紙が頭をちらついたとき、ふと町田の顔が浮かんできた。 日にかざすときらめく紙のように眩しい男だった。 箔が施された紙は砂の粒のように輝く。その光は小粒ながらも目を見張るほど美しい。ただし、見る角度によっては気づかないこともある。 町田も輝きを秘めている。ひけらかすことはないのに光が滲み出ている。魅惑的な光だった。 喫茶室での町田の言葉を反芻する。 『堂々としていて、見ているだけで晴れやかな気持ちになった』 できあがった作品をあれこれ言われるのは慣れている。 公募の書道展ではいつも合評が行われる。書道家たちが互いの作品を評価する。たいてい朝比奈が最年少で他は皺だらけの書家ばかりだ。 字が荒い。配置が単純。見ていて暑苦しい。 年寄り連中は日頃の鬱憤をぶつけるかのように厳しく批評する。 一身に言葉を受けていると、自分が包丁で切り刻まれている肉の塊のように思えてくる。 十代の頃は合評の度に胃が重くなった。今では書道家としての通過儀礼だと思っている。 書いているときの朝比奈について述べたのは、町田が初めてだった。 (なんだか、くすぐったかったな……寝顔を見られたみたいだ) あのとき何も返さずに笑みを浮かべた。 心の中で否定したけれど、ただ照れくさかっただけなのかもしれない。 町田に見つめられると背骨から己が焦げていく感じになる。 恋愛ごとに慣れていないから、今の気持ちが恋心なのか単なる好感なのかよくわからない。わからないからこそ、自然と沸き起こった想いに戸惑った。 (この感情は、悪くない) ろうそくの灯りのように、わずかな風にもゆらめくはかない気持ちだ。 燈ったばかりの想いは、ふとしたきっかけで消えてしまうだろう。 町田との仕事が終われば忘れるかもしれない。もしかしたら、町田の指示に従ううちに逆に嫌悪感を抱くかもしれない。 せっかく芽吹いた心を失いたくなかった。町田とは仕事の上でのつきあいだ。一方的に抱いた気持ちだから、この想いが炎のように噴き上がることはないだろう。 それでも、温めていきたい。 町田を思うだけで心地よくなる。 今日は、蒸し暑い一日だった。降りしきる雨のせいで熱気も湿度も増した。しかし鬱陶しさはない。 町田のことを思い出すと、持て余した躯の火照りが消え失せる。眠りたくなるような穏やかな温もりだけが心に残る。 (町田さんに出会えただけで、こんなに一日が変わるなんて……) ――― 数十分歩いて自宅に着いた。 作品の保管場所と乾かすスペースが欲しくて、今年の春から一軒家を借りた。地下鉄駅から離れているし築五十年なので、家賃は相場より低い。 靴を脱ぐとバッグを玄関に置いた。バッグから、イベントで使ったボウルと筆を出し、台所へ持っていった。こびりついた墨が取れやすいようにボウルに水を張る。ボウルの水に筆をつけた。 奥の和室へ行き、押し入れからダンボール箱を引っ張り出す。紐で括ってあるテキストの束を取った。 小学生の頃、毎日開いていた書道の手本だ。あぐらをかいて手本をめくった。 最後のページに佳作紹介というコーナーがある。 そこに載っている、幼い町田が書いた書を眺めた。 伸びやかで無理な力は決して入っていない。悠然とした字だ。 何冊かテキストを見ていたら、写真つきの記事が目に入った。夏に開かれた北海道書道コンクールの写真だ。二十人ばかりの少年少女が、小さな盾を持って写っている。 列の端に、小学校一年生の朝比奈がいる。 この頃の朝比奈は、色白でふっくらとしていた。同じ書道塾の子供たちから、『大福ちゃん』と呼ばれていた。 写真に写る朝比奈は、撮影者に何か恨みでも持つかのような鋭い目をしている。 どうしてこんな顔をしているのか朝比奈は覚えている。 写真撮影の前に、生徒たちは書を披露することになった。 生徒は各学年で三人ずついた。特別賞三席で最も年下の朝比奈が一番初めに書くことになった。 本当は書きたくなかった。でも自分が書かなければ始まらない。 周囲の視線、特に大人の目が気になった。他の書道塾の先生、審査員、保護者たち。彼らは朝比奈を厳しい目で見ている。 もし失敗したら、受賞作は本当におまえの作品なのかと疑われるかもしれない。 気負いすぎて、最初の一画が書けない。 正座して筆を持ったまま、朝比奈は動かなかった。 誰かの声が聞こえた。 「僕といっしょに書こう」 後ろからそっと抱きしめられた。 振り向くと、知らない子供が微笑んでいる。 磨かれた石のように(つや)やかな瞳をしている少年だった。 「ふたりでやれば怖くないよ」 「うん」 涙声で頷いた。早く終わらせたかった。 少年は朝比奈の右手に手をかさねる。 筆に墨をつけると、少年は一気に書く。 (うわ、つよいちからだ!) そう思ったときには、書はできあがっていた。 ふたりで書いたのに、自然な筆運びの作品になった。 「ほら。大丈夫だっただろ」 あっという間の出来事で、朝比奈は頷くことしかできなかった。そのあと、他の子供が次々と書いた。その間も朝比奈はずっと少年を見つめていた。 「次は、特別賞一席小学三年、町田秀介くん」 「はい」 スタッフの声に、少年が返事をする。 「まちだしゅうすけ。まちだしゅうすけ……」 覚えたばかりの名前を、朝比奈は何度も呟いた。 躯全体を使って町田は書を書いた。自分と同じ子供なのに、どうして思い切り躯を動かせるのだろう。 (もっとがんばって、まちだのように書きたい。今のままではいたくない) 写真に写る朝比奈は決意を心に秘めていた。 いつだって理想は町田だった。 心の流れるままに表現したい。町田のように、筆を己の指先のように操りたかった。 写真の中央に町田が写っている。 こうして見ると、今の町田は面影がある。 静けさを湛えた瞳はあの頃と変わっていない。 幼すぎたから、町田がどれほどすごいことをしたのか、あの頃の朝比奈にはわからなかった。全くの他人に声をかけることの難しさは、大人になるにつれわかるようになった。 助けてくれた町田の期待に応えたい。 (あのときの恩を、今、返す) 「素直な気持ちで挑んでほしい」と町田は言っていた。それならば、書くことは決まっている。 (町田のことを書こう) 幼いときに助けてくれた感謝の気持ち、あこがれと悔しさを抱きながら書きつづけたこと、そして再会したときの想い、すべて書きたい。 写真に写っている町田の右手を、親指で撫でた。町田の手の感触は今も覚えている。 今日、喫茶室で町田に手を掴まれた。突然のことに驚いてしまって、温もりを味わうことができなかった。 (もう一度、手をかさねたい。町田の手を強く握ってみたい) きっと、あの頃のようにあたたかいだろう。 町田との再会は、運がよかったからできた。自分の人生に強烈な印象を与えてくれたとしても、一度きりの出会いだった人はたくさんいる。 きっと、運命とか宿命とか、確かなつながりではない。偶然出会い、偶然再会した。ただそれだけだ。 (この幸運を生かしたい) 親しくなれば、また笑顔が見られる。 飲み仲間よりも本音でつきあえて、親友よりも心が触れあえる関係になりたい。 欲張りだなと思い、朝比奈は笑みを浮かべた。
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