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約束の時間が近づいてきた。身だしなみを確認し、家を出る。
街路樹に差し掛かった時、明日香は足を止めた。
横断歩道の向こう側で、どこかで見た人が、礼をしていたからだ。
2人は近くの喫茶店に入った。
「ええと、確か新妻探偵の助手の……」
「樹原愛理です」
ぺこり。と頭を下げた。
「何か御用? 今日は探偵事務所もお休みのはずだし、私も約束が」
時計は15:00をさしていた。
「お時間はとらせません。前原明日香さん」
「え?」
「あなたは旧姓を名乗っておられますが、まだ離婚はされておらず、旦那様とは1年前から、別居されてますね」
「どこでそれを? 新妻くん?」
「所長はあなたと約束通り、旦那様とは一切接触されておりません。私が前原学様から依頼を受けました」
一瞬、目を見開いたあと、明日香は頷いた。
「ええ。私は旦那がいます。別居してから音沙汰なし。真面目が服を着た人で、何の面白みもない人だった。1年で、離婚しようと決めてたの」
「それで所長を利用しようと?」
「新妻くんのことを知ったのは偶然だったわ。最初はそんなつもりじゃなかった……けど、一緒にいると、楽しかった」
「1年の別居生活を言い出されたのは旦那様ですね。理由をご存知ですか?」
「いいえ!?」
「『自分は、真面目一筋のつまらん人間です。妻を笑顔にするには、どうすればいいか』。お金でも貯めて、豪華な結婚式からやり直せば、奥さんは笑ってくれるよ。なんて知人の冗談を真に受けるほど、真面目な方だったそうですね。全てはあなたの、笑顔のためでした」
「そんな、理由で?」
「こちらをどうぞ」
差し出されたのは写真だった。
工事現場、コンビニ、タイヤショップで働く前原学の姿だった。
「こんなに痩せて‥‥」
明日香は両手で顔を覆った。
1年間の彼の苦労が、そこに表れていた。
「旦那様は先日、所長と明日香さんが一緒にいるところを、偶然見かけられたそうです。楽しそうに話す明日香さんを見て、旅立ちを決意されておりました」
「どういうこと?」
「旦那様からのご依頼は『妻は今、笑顔でいますか?』でした。明日香さまが笑顔でいらっしゃられた、それが叶ったのなら、自分は消えるべきだと」
明日香はたまらず立ち上がる。
「結果報告の前でしたから、調査はこちらでキャンセルとさせていただきました。調査費用は旦那様にお返しください。16:00の新幹線、だそうです」
封筒を受け取った明日香は、驚いたような、泣きそうな顔をして、愛理に大きく頭を下げ、店を飛び出した。
結論から言えばそう。
妻は平凡な生活に嫌気がさして、離婚を決意していた。
夫はその平凡な生活を守ろうとしていた。そして妻のため、全てをやり直そうと奮闘した。
真面目で不器用な男と──少しだけ冒険をしたかった、妻の話。
すっかり冷めきったコーヒーを一口「男って本当、馬鹿ばっかり」愛理は、ぽつりとつぶやいた。
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