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与太郎が飛び出して来たのは壽屋という高級な芝居茶屋だった。
「与太郎。お前こんな高そうなお店から出て来るなんて、いったい、どうゆう了見だい。まさか、今朝の一両をここで使ってしまったんじゃないだろうね」
お紺が嘆いた。
「お嬢。それは考え過ぎですよ。おいらは寅蔵親分たちの調べに付き合っていただけですから」
与太郎がそう弁解すると、壽屋から馬面の寅蔵と子分の末吉が出て来た。
「おや。お紺じゃねえか。それに、伊勢屋のご隠居も・・・」
寅蔵はお蘭の顔を見て、口ごもった。それもその筈、先月の不知火お銀の一件では伊勢屋で無様な醜態を見せてしまった寅蔵だったからだ。
「おや、これはこれは寅蔵親分ではありませんか。この前は大変お世話になりまして、主の清兵衛共々寅蔵親分にはお礼の申しようもございませんと、常々話しておりますのよ」
そう言って、お蘭は声高に笑った。
「あっしらは御用の筋で急いでやすので、ここで御免なすって」
決まりの悪い寅蔵はそう言い残すと、足早に末吉と立ち去った。
納得の行かないお紺は、一人残った与太郎に詰め寄った。
「与太郎。御用の筋ってのは、何のことだい?」
「お嬢。こんな人通りの多いところで立ち話のできるもんじゃありやせんぜ」
与太郎はお蘭のいるのが気になっていた。それをお蘭が察した。
「お紺。詮索はもう良いじゃないか。与太郎さんも一緒にこの壽屋でお昼を頂こうじゃないか。与太郎さんもお昼ご飯はまだなんだろう?」
「いいえっ」
与太郎がそう応えると、お腹は正直にグーッと鳴った。
「お蘭さま。こんな高そうなお店にはご一緒出来ません」
そう言うお紺には答えもせずに、お蘭は与太郎の袖を引っ張って壽屋にさっさと入って行った。
お蘭の一行が女中に通されたのは二階の個室だった。障子の開け放たれた窓からは、大通りの向こう側の森田座の櫓や幟が臨めた。お蘭は女中に幕の内弁当と突合せを注文した。女中が立ち去った後で、お蘭が座敷机を挟んでお紺の左隣に座る与太郎に話し掛けた。
「さあ、与太郎さん。店先の立ち話とは違って、ここは襖で囲われた個室だよ。さっきの話を聞かせておくれでないか」
だが、与太郎は御用の筋をお蘭に話すのを躊躇った。
「与太郎さん。先刻承知のことだとは思うがね、お紺にはわたし付きの女中奉公をして貰っているんだ。あたしの許しがなければ、御用の筋だからと言って探索のためにお紺が自由に外を出歩くわけにはいかないんだよ。つまり、わたしを通さなければ、御用の筋も役に立たないってことさ。だから、わたしにまず話すのが本筋というもんじゃないのかえ」
与太郎は追い詰められて、助けを求めるように右隣に座るお紺を見た。
「確かに、お蘭さまの仰る通りだよ。ここは与太郎。お前の仕入れたネタを洗いざらい話すしかないね。ただ、その前に。お蘭さま、これは御用の筋ですから、事件の決着がつくまではお蘭さま限りに留め置いて頂くようお願いします」
お紺がそう言うと、お蘭はニヤリと笑って頷いた。
「いいだろう。約束するよ。あたしも伊勢屋のお蘭だ。事件の顛末が知れるまでは秘密を守ろうじゃないか」
「分かりやした。お嬢やお蘭さまがそこまで仰るのなら、お話ししましょう。実は、昨夜麹町のお堀端に水死体で上がった若い娘の身元が知れたんでさあ。それが、なんと。この壽屋の看板娘で評判のお染だったんです」
与太郎の言葉に、お紺とお蘭は眼を剥いた。
「ここの看板娘が水死体?」
お蘭が唸るように言った。
「ここの主人の徳兵衛が言うには、お染はこの数日間壽屋に姿を見せなかったそうです。ここで働く女中たちにも聞きましたが、お染は気立てが良いい評判の娘でこれと言った噂もなければ、人の恨みを買うようなこともなかったそうなんで」
「それじゃあ、お染はどうして麹町のお堀端に浮かんでいたんだろうね。与太郎。船宿での聞き込みはどうだい?」
お紺が訊いた。
「へい。船宿網島の船頭たちに聞いてみやした。昨夜の満潮時は大潮のために、かなりお堀端も水かさが増したそうで」
「すると、この辺の川端からお染が飛び込んだとして、麹町のお堀端まで流れ着いてもおかしくはないってことだね?」
「船頭たちもそんな事を言っておりやした」
「ただ、お染がこの数日間、どこにいたかが問題だね。お染はどこに住んでいたんだい?」
「お染はこの大通りの裏長屋に母親と二人暮らしだったそうです」
「じゃあ、この近所だね。与太郎。ここが済んだら、その長屋に行ってお染のおっ母さんに会って来ておくれ。お染のこの数日間の足取りを追うんだよ。それから、これはお染のおっ母さんへの見舞い金にしておくれ」
そう言って、お紺は懐からお給金袋を取り出して、一分金を与太郎に手渡した。
さて、その日の夕刻。お染が住んでいたという場所は、壽屋を出て築地の方へ暫く歩くと木戸口があり、そこを入った井戸端の傍で一番手前にあった。今でいう四畳半の1Kサイズ、「九尺二間三坪」の棟割長屋だ。
与太郎は開け放たれた障子戸から中を覗いたが、誰もいなかった。だが、一応、与太郎は声を掛けて一歩中に入ってみた。
「御免なすって」
当然のように中からは返事がなかったが、背後から声があった。
「おい、与太郎。どうしてぇ?」
驚いて与太郎が振り向くと、酒田左近がいた。
「あっつ。酒田さまこそどうしてこんな時分に?」
「なに、仏さんを運んで来たのさ」
そう言って、左近は後ろを振り返った。左近の背後には、蓆が被った戸板を前後にして抱えている小者の男が二人いた。そして、その傍に馬面の寅蔵と子分の末吉が神妙な顔つきで立っていた。与太郎は邪魔にならないように慌てて、外に出た。そこには、さらに長屋の大家長次郎と、お染の母親お時もいた。
「お染は気の毒だったが、検死は身投げによる溺死が死因と相成った。骸はお時にここで引き渡すので、大家の長次郎は弔いなどで何かと世話を焼いてくれねぇか」
四畳半の真ん中に敷いた布団にお染の遺体を納めた後、上がり框に腰かけた左近がお染の傍に座るお時と長次郎に声を掛けた。
「坂田様、かしこまりやした。お染は懇ろに弔ってやりましょう」
長次郎がお時の肩に手を遣りながら、答えた。お時は着物の袖を目に充てたままただ、頷くだけだった。
その後、皆が引き上げる時、与太郎は玄関口に佇むお時に声を掛けた。
「お時さん。お染さんを亡くしてさぞかし気落ちされてることでしょうが、これを受け取っておくんなせぃ。麹町の文五郎親分からのお香典でさぁ」
そう言って、与太郎はお時の手にお紺から託された一分金を手渡した。
「お前さん、こんなことをしてもらっては・・・」
「なに、お弔いの足しにしてもらえれば、それで良いってことですよ」
そう言い残して、先を行く左近たちの後を追いかけて与太郎は駆け出した。お時は一分金を握りしめた両手を胸に当てて、その後ろ姿を見送った。
それから数日経った頃、与太郎がお時を伴ってお紺の部屋を訪ねて来た。
「お嬢。お時さんをお連れしやした」
与太郎が庭先から開け放たれた障子の向こうに居るお紺に声を掛けた。
「おや、与太郎。お時さんって、どこのどなただい?」
そう言いながら、お紺は縁側に出て来た。
「わたしはお染の母です。先日は大層なお見舞い金を頂きましてありがとうございます」
お時は今でいうアラフォー、多少やつれが見えるが目鼻立ちは整った女房であった。
「ああ、そうですか。お染さんのお母っさん。この度は本当にお気の毒なことでした。お悔やみ申し上げます。さあ、中に入って下さいませ」
お紺が促して、お時を奥に敷いた座布団に座らせた。そして、庭側を背にして、お紺がお時に相対して座った。与太郎も部屋に入って障子を閉めると、部屋の右隅に座った。
「お時さんは文五郎親分を訪ねて来られまして。それで、お嬢の所にお連れしやした。先日の見舞い金のお礼と、お染さんのことでご相談したいことがあるそうです」
与太郎が前置きした。
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