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「それでは、そのご用向きをお伺いしましょう」
お紺が促した。お時は思い詰めたようにして、頷いた。
「実は、お役人さまのお見立てでは、娘のお染は身投げとのことでした。どんな事情で身投げしたのか、それがわたしの胸に今もつっかえているのでございます。わたしは早くに亭主を亡くしてからというもの、小さいお染の手を引きながら、木挽町で芝居小屋の若い衆や芝居客を相手に、お蕎麦の屋台を出してきました。お染はそんなわたしを見て、『いつかわたしがおっ母さんにお店を持たせてあげるからね』と口癖のように言ってくれておりました」
そう言って、お時は袖の裏地でそっと目頭を拭いた。
「すると、お染さんは自分で命を絶つようなことはしないはずだと、言われるんですね」
お紺の言葉に、お時は無言で頷いた。
「お染は働き者で、壽屋さんで女中奉公しておりましたが、今年の初めに『大江戸小町娘』の一人に選ばれました。それで、壽屋さんでは看板娘として接客を任されるようになりました。お染はそれに気を良くしておりましたが、数日前に『良い仕事が見つかりそうなので、チョイと出掛けて来る』とわたしに言い残して朝早くに長屋を出て行ったのが最後となりました」
そこまで言って、お時は嗚咽を押し殺して忍び泣きした。
「その良い仕事というのは、どんな仕事だったんでしょうか?」
お紺の問いに、お時は首を横に振った。
「わかりません。お染は他には何も言わずに出掛けて行きましたから」
「そうですか。それで、わたしに相談事とは?」
「お染がどうしてあんな姿で帰って来たのか。そこを調べて欲しいんです」
「お染さんは何かの事件に巻き込まれたと?」
「そうに違いありません。最後に出て行くときはあんなに嬉しそうにしていたのですから」
「分かりました。お時さん。わたしに任せてください」
そう言って、お紺は胸元をポンと右手で叩いた。
お時が帰ったあとも、与太郎はお紺の部屋に残っていた。
「お嬢。あんなこと簡単に引き受けてしまって、良いんですかい?」
与太郎の心配そうな顔に、お紺は微笑んだ。
「ああでも言わなきゃあ、お時さんが可哀想じゃないか。それに、まんざら取っ掛かりがないわけじゃないのさ」
お紺の言葉に、与太郎が色めいた。
「えっつ。何か、探索の手掛かりを見つけたんですかい?」
「まだ手掛かりとまではいかないけどね。お時さんが『大江戸小町』の話をしただろう」
そう言いながら、お紺は立ち上がって奥の押し入れの襖を開けて、紙片を取り出した。そして、与太郎に手渡した。
「何ですかい?これは」
「この前の芝居見物の折に、芝居小屋で木戸番の若い衆にもらったのさ。その大江戸小町の選抜大会を記した案内札だよ」
「えっつ。お嬢。これに出ようって魂胆ですかい?」
「まだ決めちゃあいないけどね。お染さんが壽屋の看板娘になった切っ掛けを作ったんだ。お染さんの失踪とも何かの関わりがあるかも知れないよ」
その時、開け放たれた障子の角からお蘭がちょいと顔を出すのを、お紺は気付いた。
「あっつ。お蘭さま。何かご用でしょうか?」
「これから、団子屋に行くんだよ。読売の仁平をそこに呼んであるんだ。先日の芝居見物のネタを売り込んでやろうと思ってね。お紺。あの菊之丞の役者絵を持って、わたしのお供をしておくれ」
お蘭はそう言って、お紺の顔を見てニヤリとした。
「分かりました。与太郎を連れて行っても良いでしょうか?」
「ああ。賑やかな方が良いね」
それからしばらくして、昼下がりの団子屋にお紺と与太郎をお供に連れて、お蘭が現れた。暖簾を潜ると、土間に並んだ卓の一つに読売の仁平が居た。仁平はお蘭の顔を見ると、立ち上がって手招きした。
「ご隠居。先日は木挽町でも評判の早川菊之丞を観劇されたようで。今日はその話を楽しみにしてお待ち申しておりやした」
「お前を呼びつけたようで、悪いね。隠居部屋ではチョイと堅苦しいので、弥平さんの店に来てもらったんだよ。まあ、気軽にわたしの話を聞いておくれな」
お蘭は卓を挟んで仁平と向かい合うように席に座った。そして、お紺に隣に座るように促した。与太郎は隣の卓に付いて頬杖を着いた。
「お蘭さま。団子を頼んでも良いでしょうか?」
お紺がすかさず、お蘭に尋ねた。
「そうだね。お前に任せるよ。ところで、役者絵を出しておくれでないかえ」
「はい。かしこまりました」
お紺は膝の上に置いた風呂敷包みから、菊之丞の役者絵を一枚取り出して卓の上に広げた。
「おお。これが菊之丞ですかい。なるほど、飛び切りの二枚目だぜ」
仁平が役者絵を覗き込みながら、唸った。
そこへ、団子をお盆に載せて運んできた佐吉が一瞬、息を飲んで立ちつくした。
「どうしたね。佐吉。菊之丞を見知ってるのかえ?」
役者絵を見た佐吉の驚きの表情を見逃さなかったお紺が尋ねた。
「いえ。あっしは何も…。初めて見る役者さんです」
言いよどみながら、佐吉はお団子の大盛り皿とお茶の入った湯飲み茶わん、人数分を卓に置くと、サッサと奥に引っ込んだ。
「それでは、わたしの菊之丞一座の感想を披露いたしましょうかね」
お蘭が声高に言った。
「よろしくお願い申します」
仁平は大福帳のような帳面と予め摺って置いた墨汁の小瓶を取り出し卓に置いた。そして、お蘭の話が始まると、仁平はいつの間にか手にしていた小さな筆を使って帳面に書き込み始めた。
お蘭は話上手だった。お紺はあの芝居見物の感動を二度味わうことになった。ひとしきりお蘭の話が終った時、仁平が筆を置いて拍手した。与太郎もお紺も拍手した。
「どうだい?良い読売が書けそうかえ」
喜色満面で茶を喫しながら、お蘭が尋ねた。
「良いお話しでした。後はあっしに任せてくだせえ。何、こちとら聞いたことを見てきたことのように記事を纏めるのが商売ですからね」
仁平が哄笑した。
「ところで、読売には今のお蘭さまの話だけが載るのでしょうね?」
お紺が尋ねた。
「いえね。お蘭さまのお話しは読売の前段で菊之丞一座を紹介する記事に使いたいと思っているんでやす」
「前段って、どういうことだい」
お蘭が聞き捨てならないという顔をした。
「実は、今度の読売は菊之丞一座の『大江戸小町競艶大会』を宣伝するのが本筋なんですよ。これには、さるお方の資金援助がありまして。そこから、お蘭さまへのお礼も出ているんでございます」
「なに、今度の読売には後援者がいるのかい。そのさるお方ってのはどこの誰だね?」
お蘭が口を尖らせた。
「へええ。それは内密にって言われてるんですがね。さて、どうしたものか」
仁平はつい口を滑らしたことを後悔した。
「菊之丞一座は木挽町のど真ん中で、堂々と素晴らしい芝居を見せているんだ。お前がこそこそ隠し立てすることじゃないだろうよ。さっさと吐いちまいなあ」
伝法な言い回しで、お蘭が仁平を脅した。仁平は辺りを見回して小声になった。
「それじゃあ、ここだけの話しですよ。山城屋の金兵衛さまです」
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