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第3話――なずなと祭りと浴衣にメイク②
八奈結びも朝九時を迎え、シャッターがあちこちでガラガラと上がっていく。ビューティ・アキも開店の時間ではあったが、店先の看板は〝閉店〟を示したままである。
店内では、奥に設えられた来客用のスペースで重苦しい沈黙が流れていた。背の低いテーブルを挟んで二人掛けのソファが向かい合い、そこにきっちり定員が腰かけている。アキさんとタマばあ、舞台メイクを落としたなずなとユキである。テーブルにはあえてあたたかい緑茶と、端の方にタマばあ持参の刺繍セットが置かれていた。
この状況に至るまでがまたひと騒動だった。ユキは興奮しきって「とにかく! メイクして!!」しか言わないし、なずなは濡れ布巾でメイクを落とそうとしてアキさんの雷を受けるし、しっちゃかめっちゃかであった。それを巧みに捌いて三者を席に就かせたのは、タマばあの年の功の賜物である。
「ほんで、ユキちゃん……いったいどういう事情やのん?」
タマばあが茶をすすりながら、何気ない口調で聞いた。促されて湯呑に口をつけていたユキは、憮然としながらも大分気が落ち着いたようだ。ショートカットが涼やかな首回りをハンカチでぬぐうと、持っていたポーチ・バッグに手を突っ込む。中から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。
「ともかくアキさんに、化粧してほしいんや。これと似たような顔に」
そう言われ、一同は写真を覗き込んだ。
写っているのは、ひとりの女子高生―隣町の学校の制服を着ている。小柄で華奢な体型に、ふんわりとしたゆるい巻き毛の長髪、黒目がちで睫毛の長い眼差し、可憐な唇―要するに、美少女である。どことなく隠し撮りの趣漂う画面以外に、大きな問題は見当たらない。
タマばあが湯呑を置いた手で写真を取り、しげしげと眺める。それを隣のアキさんが一瞥するも、また拗ねたようにそっぽ向いてしまった。年甲斐のない彼女の振る舞いに、タマばあは困ったように微笑みながら、ユキにやわらかく訊ねる。
「これは誰なん?」
「……隣町の立花優理」
「あ、名前聞いたことある!」写真を見て放心していたなずなが言う。「なんやごっつかわいい娘がいるって……へぇ、これが……」
一時期、なずなの学校でも噂されたことがある少女だった。隔たった場所でも評判が上るなんてどれだけの美人なのだろう、とそのときは不思議に思ったものだが、写真を見て納得する。いつも写真写りに悩まされるなずなからすれば、なんの準備もなく隠し撮りされてもこれだけ可愛い、なんてことは想像もできないことだった。まるでアイドルのオフショットのようだ。
(……あれ? でもなんで、ユキがそんな写真持ってるんやろ……?)
自分の身の上に起きた事件に加え、ユキ乱入のインパクトでごちゃごちゃになっていたなずなの頭の中、ようやく違和感が仕事した。
そもそも、ユキの顔を見るのが久しぶりだった。夏休みに入ってから親しい友人と遊びに出かけることは何度かあったのだが、なぜか誰もユキとは連絡が取れなかったのだ。家族と旅行でもしてるんかいな、とみんなして首を傾げていたのだが――
このときになって、ゾクリと悪寒がなずなの背に走った。ユキは喜怒哀楽が激しく、ときどき、予想もつかないような行動力を発揮する。それは大抵なずなたち友人のためのことであった。が、今このとき、そのエネルギーはどこにも向かず、自分自身の中でぐるぐるととぐろを巻いているような――
「この顔になって、あんたは何をすんのん?」
ぴちゃん、と冷や水が滴るような問い。
アキさんがユキに向きなおって、まっすぐ見つめながら言った。
そこには小娘をいいように弄ぶいたずらなオバチャンの面影は、もはやない。白刃の切っ先を相手の喉元に突き付けるようなその気迫に、なずなは息を呑む。こんな顔をするアキさんを見るのは、初めてだ。
だがユキはこの問いに怯まず、クマの出来た目に妖しいきらめきを迸らせ、答える。
「復讐や。うちのことバカにしたあいつを、ギャフン言わせたんねん」
あまりにも不穏当な返しに、なずなはあんぐりと口を開けた。
ユキが冗談で過激な物言いをすることもあると知ってはいたが、こんな本気になっているところは見たこともなかった。そしてなぜ彼女がこんなにも思いつめ、その選択をしたのか、それもまるで見当がつかないのだ。夏休みに入る前までは、決してこんな暗い感情をユキが見せることはなかった―それどころか、いつもどこか心を弾ませた風で、輝く笑顔すら見せていたのに。
「……荒療治が、必要か」
小さく呟かれたその言葉がいやに明瞭に聞こえ、なずなはギクリとした。
はっと顔を上げると、アキさんがユキに顎でしゃくってお客さん用の座席を示した。
「座り。化粧、したるわ」
◇◆◇
そして、一時間ほど経ったころ――
「終いや、目ぇ開けてみ」
最後の仕上げを施したアキさんが、こともなげにそう言った。
そわそわとソファで待っていたなずなも、思わず立ち上がり鏡を覗き込む。白布の前掛けを取り払われたユキが、肩を小刻みに震わせているのがまず目に入った。
彼女の顔を映しだす前面の鏡をみて、なずなは、またもぽかんと口を開いた。
奥二重であるユキの双眸が、くっきりとした二重を描き出している。それを縁取る長い睫は付けたものであるはずだが、もとからそこにあるように自然だ。アイラインはきつすぎず、しかし垂れ下がって愛らしい目尻をさりげなく演出していた。
眉も、調えた程度で大きく剃ったりはしていないのだが、彼女の気の強さの表れだったようなへの字型がゆるやかなハの字を描いている。眉頭から眉尻までに見受けられる繊細な墨の濃淡がその要因だろう。
そう、すべてにおいて色彩が麗しく調和していた。白すぎず、しかし清廉な印象を生み出すファンデーションの妙。上気しているようにほの赤く色づく頬は目に鮮やかだ。紅を塗り重ねグロスの光沢を湛えた唇は、ぷくりと立体的で思わず触ってみたくなる。
写真で見た立花優理そのもの――よりも数段、美少女然としたその姿。
ユキ自身も、想像以上の仕上がりを信じられないのか、頬に手を当て確かめていた。質のいい黒髪のウィッグがそれに合わせて、ゆるやかに肩口で踊る。もし自分でもそうしただろう、となずなは思う。
ユキもなずなも、世間で言うところのいわゆる〝地味顔〟というやつだった。なずなは上向いた鼻を密かに気にしているし、ユキのコンプレックスは奥二重だ。それでも、感情に合わせて表情のよく変わるユキを魅力的だとなずなは思っているのだが、そう本人に言うと冗談扱いされる。なずなもなずなで、小鼻でええなぁ、とのユキの言は信じられない。
そんな〝地味顔〟同盟の盟友が華麗に変身したのだ。なずなにとっては他人事でない。
(……うちも、あんなかわいくなれたら、はっきり言えるやろうなぁ…)
パンパン、と手の鳴る音でなずなは我に返った。アキさんが、ひとまずの片付けを終え両手をはたいたのだ。いつでも自信に満ち溢れ、腕前を誇って見せるこのオシャレ番長は、なぜかこの時はどこか冷ややかな面持ちで鏡の中の彼女の客を眺めていた。
ユキの肩が、一際大きく震えた。それは今までのものとは明らかに違う―武者震いのそれだった。
「ふ…フフフ、完璧や…! イケるッ!!」
ユキは立花優理の顔を勝利への確信で歪めた。そしてすぐさまソファに置いたままにしていたポーチ・バッグをひっつかみ、「アキさんサンキュ!」と言うと同時に、ワンピースの裾を翻して店を走り出ていった。
嵐のような友人の所業に呆然としてたなずなだったが、ハッと気づき、アキさんに向きなおった。
「ひどいわアキさん! なんでうちの時も本気出してくれんかったんですかぁ!!」
つい先ほどまで自分がしていた舞台メイクとユキのメイクのあまりの落差に、クレームを入れざるを得なかった。だが半べそかいているなずなにアキさんが返したのは、いつものような毒舌ではなく、
「ほんまに、アレがええか?」
どこか寂しげな一言だった。
え、となずなが虚を突かれている間に、アキさんは店の扉に手を掛ける。向こうに開いたとき、ぽそりと呟かれた言葉が生ぬるい風に乗ってなずなの耳に届く。
「そう、化粧はあそこまでできる――……せやから、怖い」
いつもとまるで調子が違うのでなずなが戸惑っていると、アキさんは遅まきの開店準備をしに外に出た。結局二の句が継げず、口をもごもごさせているなずなの背にタマばあの声がかかる。
「なっちゃん、ユキちゃんの後を追ってあげてんか」
「タマばあ……?」
切実さが滲むその声に、なずなが振り返る。タマばあはソファに腰かけ進めていた針仕事も止めて、じっと彼女のことを見つめる。
「こういうときは、友達の力がなにより大きいんや――お願い、なっちゃん」
事情はまるで呑み込めなかったが、じっと見つめてくるタマばあの眼差しに――そして自分の胸をざわめかせる不安に、なずなは大きく頷いた。
◇◆◇
ユキなら、きっと隣町に向かうバス停の辺りにいるだろう――謎の確信に満ちたタマばあのアドバイスに従って、なずなは美容室を出て直行した。
日は既に高く、なずなの肌を遠慮なく焼き、玉のような汗を滴らせる。じとりと湿気を含んだ空気は重く、走って目的地に向かう彼女の呼吸を荒くさせる。
商店街の通りは祭りの準備で、理事会のスタッフや各店の店主が慌ただしく立ち回っていた。今宵待受ける非日常への期待感に、ざわめきも弾んでいる。しかしなずなは心に立ち込める嫌な予感に気取られ、それをどこか遠くのことのように感じていた。
バス停への近道は、商店街の端にある小公園を突っ切ることだ。夏になり何かと因縁のあるこの公園も、なずなが辿りついた時には誰もいなかった。こけそうになるのをなんとか踏ん張り、さびれた公園をまっすぐ走り抜けると、出口を出てすぐの車道にバス停がある。
しかし、そこにユキの姿はなく、男子高生がひとりソワソワと立っているだけだった。
(……? あれは、D組の……?)
彼に見つかる前に、慌ててなずなは手近な電柱の陰に隠れた。
バス停にいる男子は同じ学校の生徒だった。なずなはC組なので、合同授業でD組と一緒になる時、あの顔を何度か見かけたことがあった。いわゆるイマドキのイケメン風味で、似たようなのと何人かでよくつるんでいるのだ。確か――植川、という名だ。
この奇妙なめぐりあわせに首を傾げながら、上がってしまった息を密やかに整える。ともかく汗が流れて仕方がないのでハンカチでぬぐおうとし、そこで鞄をどこかに忘れてきてしまったことにようやく気が付いた。恐らく繁雄の店だろう、と思い至ったところでさきほどの醜態を思い出し、思わず叫びそうになる――ところで、バスがやってきた。
ぷしゅう、と出口が開く。何の気なく見遣ったなずなは、そこで目を点にした。
「待った?」
「ぜ、全然」
植川に優雅な声音でそう言いながらバスを降りてきたのは、立花優理―の皮を被った、ユキだった。
なずなは間抜けな声をあげそうになって、慌てて口を手で塞いだ。何度も何度も瞬きして確かめる。肩からかけたあのポーチ・バッグに明るめ可憐なワンピースは、間違いなくユキが着ていたものだ。
さっき美容室で会っていなければ、あれをユキだと見抜けなかったろう。さすがは、八奈結びのオシャレ番長による本気メイク――
――ほんまに、アレがええか?
ふと、なずなの脳裏に、アキさんの言葉が蘇る。
アキさんの声は寂寞としていて、思い出してなお胸が締め付けられる。
(あれは……どういう意味やったんやろか……)
少しばかり物思いに沈んでいるうちに、バスが出発した。同時に、ユキと男子も笑いあいながら歩き出す。それに気づき、なずなはどうすべきか一瞬悩んだが、
(……ともかく今は、ユキのことや!)
意を決し、二人に気付かれないよう尾行を開始した。
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