第1話――繁雄と和希と夕日の公園①

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第1話――繁雄と和希と夕日の公園①

 湯がよく煮えている。  勢いよく立ち上る白い湯気、その向こうからちらちらと覗く水面のそのさらに向こうには、白く細く長いものが無数、沸き起こる湯の対流に揺られ踊っている。麺である。そのいずれもが一秒ごとに艶めきを増し、掬いあげられるのを心待ちにしているかのようにも見える。  繁雄は、その麺の声に耳を傾ける。実のところ、それがどういうことなのかはまだよくわかっていない。半年間教えを仰いだ師匠から与えられた言葉だったが、繁雄自身が師のように実感を伴ってそれを理解するにはまだ何年もの歳月が要されることだろう。  それでも、麺を湯から引き上げるタイミングは大分掴めるようになってきた。うどん屋を継ぐ、と決心した時の右も左もわからない状態から、実際短期間で繁雄はよく精進した。少なくとも、うどんを食べたいと思った客の腹をそれなりに満足させられるようなものを作る程度の実力を、その両腕につけたのである。後はひたすら、経験を積み重ねるのみだった。  頭に巻いた手拭いの結び目が緩んでいるのに気付き、繁雄はきつく結びなおした。  次の瞬間、その右手は吊り下げてあったてぼに伸びている。  取っ手を掴むや大鍋の中を悠々と湧き立つ湯の中に沈め、てぼの網の内に手早く麺を納めていく。ぬかりなく全て入れ終えると、繁雄は背後の流し台へと身を翻した。わずか半歩、何ら淀みのない動作である。  ざるは既に用意されていて、その上に静かに麺を滑らせると同時に、繁雄は蛇口を捻る。勢いよく水が流れ出し、湯がきあがったばかりの麺の身を締めていく。  繁雄はその中にそっと指を入れ、撫でるような手つきで混ぜ、麺をまんべんなく流水に晒した。その大きな指先のひとつひとつに、細心の注意がこめられていた。こうした日々の荒行に痛むことなく、繁雄の指は十七の少年に相応の弾力を持っていた。  そうして過不足なく水に晒し、麺が程良く仕上がったのを見計らって、繁雄は蛇口を閉める。  その時、 「ただいまぁ!」  店の戸がけたたましく開いたかと思えば、明るすぎるほどの声が狭い店内に響いた。 「和希、もっと静かに入ってこいゆうとるやろ」  水をよく切った麺を携えて再び厨房の前に構えた繁雄は、元気良さを持て余すような動作で戸を閉める妹を一瞥して言った。動くたび背負ったランドセルの冠がばたんばたんと跳ねまわる。既に留め具を壊してしまっているので、来年卒業を迎えるまでそのままである。 「なんでよぉ、別にえーやん」  釘を刺された本人である和希は、すぐさま顔を膨らせて見せる。もちろん繁雄はそんなもの意に介さない。 「ようない。お客さんが落ち着いて飯食われへんやろ」 「あっ、北村のおっちゃんやん」 「はは。今日も元気やねぇ、かっちゃん」  そこでようやく、和希はカウンターに客がいるのを認めた。全方位から見て〝人が好さそう〟と太鼓判を押せる風貌をした北村さんは、店の常連で、繁雄のうどんを食べに足を運んでくれる。五軒隣で文房具屋をやっているこの人当たりのいい中年は、この八奈結び商店街の中で若くして店を構える繁雄のよい理解者だった。だからこそ、その厚意にもたれかかりたくはない、と繁雄は思っている。  そんな兄の心内など当然知る由もなく、和希は屈託なく北村さんと喋っていた。苦笑交じりのため息をひとつ吐いて、繁雄はうどんの仕上げに専念する。  盛るための丼も、散らす薬味も揃えた段階になって、北村さんと話し終えた和希がカウンターの向こうから声を掛けてきた。 「アニキ、あんな! 今日学校で先生がゆーててんけど!」 「おー」  帰宅早々の和希のバカ話は毎度のことである。繁雄は生返事して、指先に集中する。ざるから麺をひとつかみずつ、順々に盛っていく。 「なんや先週この辺で、頭ん先から靴まで真っ黒で、しかもこんなあっついのにコート着たおっちゃんが公園とかに来て、遊んでる女子に〝おっぱいみせてんかー〟ゆーねんて!」 「へー」  真剣に聞くまでもなく、夏休みも間近に迫った今の時期に出始めるアレ、つまり変質者の話である。きっと先生の話は『帰り道は気ィつけて、知らない人にはついて行ったらあきませんよ』で〆られたに間違いない。  頭の片隅で繁雄がそんなことを考えている間にも、うどんは完成に近付いている。 大根おろしとかぼす、それに摩り下ろした生姜を小さくひともりと、小口に刻んだたっぷりの長葱。夏のこの時期に食欲を増幅させる、たまらない一品が仕上がった。  仕上がった丼を右手に、別の椀に入れただし醤油を左手に、カウンターの向こうへと渡そうとしたその時、 「やから今からおっぱい見してくる!」  どっかしゃああん!  繁雄の手を滑り落ちた醤油入りの椀が、一度はカウンターに不時着するも、更に転げて縁から落ちて、床に激突し粉々になった。ぶちまけられた液体が黒い溜りを床に作り、その上に椀の破片が無残に散っている。  幸い、椀と同時に落下した丼は、その到来を待ちわびた北村さんの手により救出されている。  北村さんがほっと一息つくのもつかの間、すぐにただならぬものを感じて厨房の中を見る。  そこでは繁雄が、大事な飯のタネを粗末にしたことにも気付かず顔を俯かせていた。 「………………………なんやて?」  微動だにせず、繁雄は呟く。 「せぇーやぁーかぁーらぁ」  いつの間にやら和希はランドセルをカウンターの客席に下ろして、出かける体勢に入っている。その口ぶりには、物のわからないアホなアニキにわからせてやるのだ、という謎の誇らしさがある。 「そいつがな、ゆぅねんて。〝おっぱい見してくれたらおこづかいあげるでー〟って!」 「ほぉーう…」 繁雄は顔を上げない。 「やからな、今からそいつ探して見してくる!」  意気揚々と言い放つ和希は、無論気づいていない。無事うどんを受け取った北村さんは、既に耳を塞いでいた。 「こんの………ドあほがあああああああああああああ!」  繁雄の怒号が炸裂する。  漫画であればガラスが粉砕されているほどの凄まじい声であった。が、毎度のことなので店の常連客である北村さんは、繁雄から前触れの怒気が発されるやいなや、両耳に手をきつく当てがって備えていた。  しかし、いつも決まって怒鳴られる相手である和希は全く学習しておらず、今日も鼓膜を痺れさせて頭をぐらぐらさせている。  その間にも繁雄は大股で厨房から出て、和希の前に立った途端、何の遠慮もなくその胸ぐらを掴んだ。 「お前もっぺんンなことゆうてみィ…もう二度とうちの飯食わせんぞ」 「なんでよぉ?! ウチなんも悪いコトゆーてへんやん!」 「まだゆうか!」  勢いに任せて突き飛ばすように、繁雄は手を離した。それで尻もちをつかない和希も見事なもので、バスケットボールで鍛えた足で踏みとどまり、40センチも頭上にある兄の目をキッと睨みつける。 「こんなん見しただけでおこづかいくれるんやったら何も悪いことないやん!」  と、言って着ているランニングシャツを脱ごうとする和希を、 「アホかお前ッ! んなモン見せんな!」  と、その頭にチョップを入れて繁雄が制止する。  その段になってようやく、兄弟による騒々しい応酬は一応の決着を見せた。  しかし両者は睨み合いを続行し、北村さんはその間に挟まれる形となった。この気のいい常連客は身動きもとれず、せっかく出来上がったうどんをすすることすらできなかった。  いたたまれない沈黙がしばらく続いたが、それを破ったのは和希だった。 「…何やねん」  その一言で吹っ切れたように、和希は大きく息を吸い込んで、 「あれもすんなこれもすんなか! もう知らんわシゲオのアホっ!」  ……言いたいことを叫びきり、乱暴に戸を開け、飛び出していった。
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