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第1話――繁雄と和希と夕日の公園②
またも静けさが、しばし店内に訪れる。北村さんが何か声をかけようかとようやく決心した時、繁雄が鈍重な足取りで戸口へと向かった。力なく戸を閉めて、のそのそと厨房へと戻る。
「…なんや、すまんです。やかましゅうて」
繁雄は手拭越しにがりがりとかいた頭を下げた。すぐ替えの椀を用意し、醤油を入れて北村さんに渡す。兄妹のこうした諍いは毎度のことなので今更北村さんには不愉快には思われないのだが、改めて謝られてしまうとどうにもかしこまってしまう。
雑巾をもって厨房からまた出ると、繁雄は椀の割れたところにしゃがみ込んで片付け始めた。北村さんはその背中におずおずと話しかける。
「やぁ、まぁ、かまへんけど……ええんか、あれ」
「なにがです」
返す繁雄の声は、年相応にむくれている。片付けをするその動作も、働き者の繁雄らしからぬぞんざいなものだった。
「かっちゃん……ヤケ起こして変なことせんやろか」
「……ほっといたらええんです、あのアホ。自分でなんちゅうことゆうてんかも、わかっとらんのです」
「せやけどやな……」
何とかつなごうとするたどたどしい北村さんの言葉に被さって、
「うん、和希はわかってないだろうね」
と、涼やかな声が店内に響いた。
「あ゛ァ?」
突然のチャチャに、ただでさえよろしくない繁雄の機嫌は一層ひん曲がる。その声の主を知っているからなおのことである。
「いつからそこおった、千十世(ちとせ)」
舌打ち交じりにそう言って繁雄が戸口に視線を投げかけると、果たして想像度通りの人物がいた。
名前を呼ばれた千十世は、口笛でも吹かんばかりに微笑みながら返事する。
「和希がおっぱい見せるとか何とか言いだしたあたりから」
「おま……見てたんやったらなぁ……!」
事態を楽しんでいる節すらある――繁雄は、実際楽しんでいるのだと思っている――千十世の言い草に一瞬熱しかける。が、長年の経験からすぐさま頭を冷やした。
「えぇわ、お前になんか期待した俺がアホやった」
「うん、正解」
賢くなったよねシゲ、と付け加えられた言葉も何とか無視をして、繁雄は続ける。
「……で、なんや。和希がなにをわかってへんて?」
「あ、聞いてたの?」
「ちゃかすな!」
まるで暖簾に向かってシャドーボクシングしているような思いに見舞われ、思わず声を荒げる繁雄。それに満足した風に千十世は店の中に入ってくる。戸を閉める動作も、歩を進める足取りも、吹けばけし飛びそうなほどに軽い。藁で出来た体に笑い顔が張り付いている、千十世はそんなことを思わせるような少年だった。繁雄と千十世は同い年で似たような背丈をしていたが、がっしりとした体格の繁雄と線の細い千十世とは、まるで対称的だった。
千十世は北村さんの隣に座り、左手に持っていた丼をカウンターの上に置く。昼に千十世の古本屋まで繁雄が出前したものだった。
焦れて爆発しそうになっている繁雄を見て千十世は満足げに微笑み、ようやく答えた。
が、
「だから、和希は赤ん坊がどうやって生まれるのかわかってないってこと」
その返答はあまりに脈絡がなかった。
「はァ?」
繁雄は目を点にしている。北村さんに至ってはもはや深く考えることを放棄して、本来自身がこの店に来た目的を果たすべく、うどんをすすり始めた。
千十世はその口の端に愉悦を滲ませる。
「シゲはどうやって生まれるのか知ってる?」
「な、なんやねんそれ」
唐突な話の振られ方に何の話をしているのかも忘れ、繁雄はあからさまにうろたえた。
「あれ、知らない?」
「ど、どぁほ! しっちょるわそんくらい! そ、それはあれや、つまり……」
「そう、セックスからだね」
ぶううううう!
盛大に噴き出したのは北村さんで、すすっていた真っ最中だったから丼の中がなんかもう、不憫なくらい残念になっている。
「千十世、お前なぁ……!」
いい加減不毛なやり取りに辟易した繁雄が止めに入ろうとするが、一向に千十世の口は止まらない。
「エッチ・性交渉・肉体関係・お父さん&お母さんによる真夜中のプロレスetcetcと称される、このセックスという行為が存在する。それは通常口に出すのはちょっと憚られるようなモノなわけだよね。そう、こんな真昼間から耳にすれば、人によっては面白いくらいに狼狽してしまうような代物だ。北村さんナイスリアクションありがとう」
「は、はぁ、どうも……」
褒められているのか貶されているのか、この人のいい常連客には推し量ることさえためらわれた。そんな北村さんの戸惑いなど無論構わず、千十世の舌はなお回る。
「そう、このセックスに象徴されるもの、即ち〝性〟というのは往々にして、多くの文明・社会でタブー視されている。現代では軽視される傾向にあるけど、〝軽視〟という状況自体がこのタブー視がそもそも当然あってしかるべき前提であることを示している。まぁどうして性がタブー視されるに至ったかに関しては議論の余地が大いにあるけどここでは割愛するとして」
「長い上にワケわからんわ!」耐えかねた繁雄が声を荒げる。「千十世、お前いったい何の話して……」
「この前提の延長線上に、異性に対して己の身体をみせるべきではない、という認識がある」
止めようとして投げかけようとした言葉が、繁雄の口の中で凍りつく。
千十世は笑っている。
「そう、この場合なら和希がいうところのおっぱいだね。こういったものは人前に晒すものではない・場合によっては口にすべきですらない、と僕らは教え込まされる。大体は幼いころに。大概は、そう、両親から」
「……」
「つまりは性教育の話さ。風呂上りに裸でうろつくな、座るときに股を開くな、なんて、どこの家庭でも繰り広げられる些細なしつけも、つまるところはそこに行きつく。子どもには理不尽な、時に疎ましく思えるような親の忠告も、まわりまわってひとつの認識を作り上げる。〝自分の体をむやみやたらに他人に晒すもんではない〟って、ね」
「……」
「ね、シゲ。和希は知っていたのかな。赤ん坊がどうやって生まれるのか。自分の体が、それにどんなに縁深いのか。噂の変質者の言葉が、本当にはどういう意味を持つのか」
千十世は笑っている。
その口の端から愉悦が消えている。
ただ酷薄な笑みである。
「……俺のやり方が、悪いんやろ」
対する繁雄の声は掠れている。
その拳はきつく、ただひたすらきつく握りしめられていていて、もしもう少し爪が長ければ皮膚をえぐって血を流させただろう程だった。
それを見た千十世は緩やかに頭を振る。
「そうじゃない。君はよくやってるよ、シゲ。僕なんかよりもよっぽど。ただ――」
眉の根が、秘かに寄る。そうして一瞬だけ、それまで絶えることのなかった微笑みが綺麗に失せて、
「知らないものを知らないのかと怒鳴りつけるのはフェアじゃないと思った。それだけ」
言い終えて、千十世はまた笑った。
その言葉を十秒かけて、繁雄は咀嚼した。 そして衆目をまるで介さず盛大な溜息をひとつ吐いて、手拭いごと豪快に頭をかいた。
そのまま手拭いを掴むと、結び目の緩んでいたそれは簡単にほどけた。カウンターの上に雑において、繁雄は北村さんに頭を下げる。
「北村さんすんません、ちょっと店見ててもらえますやろか」
「かまへんよ、いっといで」
繁雄は情けなさそうに笑って、
「……おおきに!」
店の外に出て行った。
「まったく。思い立ったら吉日、は構わないけど戸くらい閉めて行ったらいいのに。ねぇ?」
千十世も立ち上がり、すたすたと戸口へと歩みを進める。
戸に手をかけてから肩越しに北村さんを見た。
いつものように、性格の悪さを押し隠さない笑顔を張り付けて。
「僕も出ます。美也がいるかと思ったけどそうでもないし、探しに行かなきゃ。じゃね、北村さん」
「おお、またな。店にも寄らしてもらうわ」
北村さんの言葉にゆるく手を振っただけで答えて、千十世も戸を閉めて出て行った。
残された北村さんはひとまず食事を済ませようかと考えたものの、丼の中身が既に食せたものでなくなってしまっているのに気付いて、溜め息を吐いた。空腹を紛らわそうと胸ポケットの煙草に手を伸ばし、火を点けようとしたところで、この一連の騒動が改めて脳裏をよぎり、やるせない気持ちを募らせた。
(こないキツいもんなんかね…親がおらんっちゅうのは………)
自分に頭を下げた時の繁雄の目に赤みがあったのを、北村さんは見抜いていた。
繁雄と和希には、両親がいない。
父親も母親も、繁雄が中学に上がって間もない頃不慮の事故で他界した。商店街組合の組長である老夫婦が、遠方の親戚に代わって面倒を見ていたのだが、義務教育の終了を契機に繁雄が親の店を継ぐ決心をした。今は妹の和希と二人で暮らしている。
両親が遺してくれた僅かな蓄えがある間に、なんとか店で生計を立てられるようになりたい――そういう考えで、繁雄が必死に努力を重ねる姿を、北村さんはよく知っていた。そして、自分にもまだ大人の支えが必要であるのに、親代わりとして和希に接しなければいけない、という辛い立場にあることも。
……だからといって、自分に出来ることなど何もない。せいぜいうどんを食べに来て、店番するのが関の山。
北村さんはもう一つ溜め息を吐いた。このお人よしが自分以外の者のために吐いた溜め息は誰の耳に届くこともなく消えた。
刻は既に十六時を過ぎ、八奈結び商店街も夕日に浸される。
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