文学少年の愛情表現

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   溜まったから抜いてくんねえ?  住み慣れたアパートにこの男が寄り付くようになったきっかけは、松田志郎の職場に現れたことが始まりだった。そこは、壁と通路の至る所にLPとEPが並ぶ狭くて古い、松田が学生時代からあるレコードショップだ。まだ学生のようにも見える男は、毎度不貞腐れた様子を見せ、少しだけ目を伏せて入店していた。  松田は職場には徒歩で通勤する。近くの築十年以上は軽い安アパートから、足取りもさほど軽くなく出勤する。その前には必ず、店の近くにある本屋に寄っていた。興味を引いた文庫本を買ってから店に入るからだ。この日も外は蒸していた。どんよりとしたグレー色の空が真上に広がるも、じわじわと纏わりつく湿度はいつも通り高い。首には湿り気があった。ここの所、毎日そう思う。本屋から出てからまた、蒸した空気を背負って擦るように歩く。そうして職場に着き、店を開け、ざっと簡単に掃除をし、レジの裏に座って買った本を読んでいた。昔からレコードは好きで、学生時代にこの店でアルバイトを始め、店長に施されるまま流されるように就職した。その店長は今、松田に店を任せて一年の三分の一は海外に居る。仕入れ半分趣味の放浪を楽しんでいるのだろう。いってらっしゃーい、と見送ってから一ヶ月以上、なんて安易な、と思いつつ、好きなレコードに囲まれてしかも楽で、それならいいかと持ち前の打算的な思考がまんまと天秤を傾けた。元々、サラリーマンは向いていないということは分かっていた。松田は毎日、好きなレコードを店内に流した。それを聴きながら本を読んだり、或いは暇であれば昼寝をした。もっとも、この店は暇なことが多いのだけれど。  そんな店に彼が足を踏み入れ、真っ直ぐレジにやって来たのだ。今掛かってるレコード何ですか? ぼそぼそと呟くように問われ、その声は音楽に紛れて何処かへ消えてしまいそうだった。はい? と聞くと、同じ口調と同じトーンで、同じ質問をした。松田は、これだよ、とジャケットを見せた。彼はまた、ぼそりと側に置くような口調で、それください、と言ったのだった。同じことが何度も続いた。三日と置かずに店に彼が店にやって来ることも多々あり、あっという間に無駄話もするような常連の位置に、彼は来た。蒸し暑い日々が本格的な夏の暑さに変わっていた頃だった。  その頃、松田から声を掛けた。お前俺と趣味が似てんな、と。彼はまた、不貞腐れたように目を伏せた。それからしばらくして彼から、家にあるレコードを見せて欲しい、と言われた。いいよ、と何の気なしに言うと、目を伏せていた顔を上げた。初めて正面から見たような気がして、そこで初めて気付いた。前髪が目に掛かっていて、酷く鬱陶しそうだと。前髪長えな、松田は無遠慮にそう言って前髪に触れ、額から避けようとした。直後、松田は瞬きをする。彼の目の色が変化したように見えたからだった。焦点がどこか合っていなくて、急に黒目がちに見える。前髪に触れたまま松田は、彼の目を見遣った。そのうち切るよ、彼はそう言った。同時に、松田の手を緩く手を退かす。あれ? とただ思った。指先が、酷くひんやりと冷たかった。この暑さでどうして? と、単純に疑問だった。しょっちゅう会話をする人間の温度を、今日初めて知った。体温低いのか? などと的外れなことを考え、その後指先が触れた箇所を眺めた。当然、ひんやりとした体温は残っていない。触れてもすぐに消えてしまう、それも初めて知ったのだった。  松田は彼をアパートに連れて帰り、レコードを見せた。狭い和室の部屋の壁一面に、レコードは並んでいた。彼は、すっげえ、と感嘆の声を上げた。その時ようやく松田は、この男の名前を聞いていないことに気付いた。そういやお前、名前何だっけ? 聞くと彼は、伊藤陸です松田さん、と言った。俺の名前知ってたの、今度はそう聞くと、部屋の表札、と目を細めて笑った。伊藤の声はまるで、真新しいレコードみたいだ、そう思った。  それからしょっちゅう、伊藤はインターホンを鳴らした。この部屋のインターホンは随分前に壊れてしまっている。大家に連絡するのも面倒だった松田は、放置していた。元々来客も少ない。それを伊藤は容赦無く鳴らそうとする。松田は壊れていると伝えていた。一度ではなく何度も。それでも彼は、何度も鳴らす。音が鳴らないからだ、と。だから代わりにがちゃがちゃと音がした。彼が来たと分かるのは、がちゃがちゃ喧しい音がするからだ。開いてるよ、そう言うと伊藤は入って来た。ある日、コンビニで買って来た、とアルコールを持って伊藤はやって来た。飲んでいるうちに、また彼の目の焦点が合わなくなった。黒目が大きくなったような、妙な感覚があった。松田はその目を見て、伊藤のひんやりと冷たい指先を思い出した。 「お前って冷え性?」 「さあ、知らねえ」  もう一度触れたい、あの冷えた指先に。訳もなくただ思った。ただそれを示していいものかと一瞬だけ考え、その一瞬の間に自分の掌の温度を、握って開いて確認する。アルコールを摂取したせいか、酷く温かい気がした。なぞるように松田の手の甲に触れたのは、伊藤の方だった。その温度の差異に、足元からざわりと、波が寄せるような感覚があった。 「やっぱりお前冷え性だろ」 「だから分かんねえって。それより」  溜まってるから抜いてくんねえ?  ああもういいや、松田は一瞬だけ天井を仰ぎ見た。相変わらず、薄汚れたクロスだ。松田は自分を現実主義者であると自負していた。夢で飯は食えないし、理想を語っていても生きてはいけない。生きて行く為にも食う為にも金は必ず必要で、打算と計算は必須条件だ。だけれどそれを、あっさりと拭ったのは伊藤の冷えた指先だった。単に冷え性なのか計算なのか、計算で体温調節など出来る筈がないのに。  松田は伊藤を抱き締め、構わずに口付けた。彼の掌を強く握り、その温度を確かめた。彼がしたように甲をなぞり、指先に触れ、夏なのに冷たい指先を確認した。一端の誘い文句を謳った割に伊藤は松田の肩に顔を埋め、声を潜めた。おーい、と声を掛けるのに、小さく呼吸をするのを確認出来るだけで、もういっそ酷いほど鳴かせたくなった。真新しいレコードは音も曇っていなくて、だけれど何かを含むような、そんな音だ。初めはぼそぼそと声を出していたのに、次第に歌うように抑揚をつけて声を出すようになった。そのレコードください、初めて伊藤と会った時の言葉を、松田は思い出した。  酷く喘がせてしまいたい、と脳に伝ってから、松田は無遠慮に彼を抱いた。身体中に触れ、舐め、噛んで、その肌の感触と本当は冷え性であってひやりとしているのか、それを確認した。意外にも体は冷えてはいなくて、だけれど松田が触れるとびくりと震えた。あんたの指の方が冷たい、息も絶え絶えに言う伊藤を見て、この衝動が何者であるかなんて後からどうとでも名前が付くと思った。背後に回って無理矢理指を突っ込むと、痛いやだ怖い、そう言った。嘘吐けお前そんなタマじゃねえだろ、と吐き出すように笑って掌で性器を擦ると、あっさりと射精する。恨めしそうに振り向いて松田を見詰める伊藤に対し、松田は謝るつもりなど毛頭なかった。彼は目を伏せ、呼吸を整えている。ゆっくりと開く唇に、恨み言でも言われるのかと思っていた。 「ずっと好きだったんだけど、これでも」  ぎょっとして、松田は瞬きをする。 「はあ? 何言ってんだお前」 「あんたのこと本屋で見掛けてからストーカーしてた、ずっと」 「全然気付かんかった」 「ほんとは、レコードもあんまり興味ない」 「は?! まじで?!」  暴露なのか告白なのか分からない宣言に、松田はまた驚いた。まんまと騙されてた、と呆気に取られる。たまたま目に付いた、畳に食い込ませている伊藤の手を、松田はもう一度握った。あったけえな、と思わず声が出た。冷え性じゃない、彼はそう言った。緊張してただけ、目を伏せたまま、ぼそぼそと呟く声に松田は、もういいや、と思う。  今掛かってるレコード何ですか?  真新しいレコードの、真新しい音が松田の脳裏を過ぎる。          終
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