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そして、今日も。
日がだいぶ傾き、沈むか沈まないかの瀬戸際で色鮮やかに空を彩るような時間帯。俺はいつものように仕事を終え、家路についていた。周りでは、同じような格好をした何人もの列ができていて、駅に向かったり、近場の飲み屋に向かったりしている。
確かに今日も暑かったし、たまには飲んで帰ろうか……。
そう思っていた矢先だった。
携帯からけたたましい着信音が聞こえた。
「……おぅ」
『ヤぁ! オ仕事お疲レさま、哲也くン!』
「お前に労われても大して嬉しくねぇんだけど」
『はハハははっ!』
ちっ、電話越しの声は相変わらず楽しそうで、苛立ちすら覚えてしまう。ただでさえ会社で仕事以外のストレスを抱えたっていうのに、こいつの声なんてできたら聞きたくねぇんだよ……。
結局、こいつの正体を探ろうとしてもうまくいかなかったし……!
『今日はイロんナ人にオ話シてたネ! 楽しソウダった!』
「……やっぱお前、うちの会社のやつなんだな」
『ん~、気にナる?』
いちいち面白がるような口振りに苛立ちながら、「今から帰りなんだが?」と尋ねる。一応俺にも良識ってものはあるから、さすがに帰りの電車でこいつの声の漏れる携帯を持っていたくはない。
すると、パストはそんなのお見通しだ、とでも言いたげに『チャんと終電まデには帰シてあゲルよ?』と笑いながら答えてきた。
「はぁ? 信用ならねぇなぁ……」
『えェ、ひドイなァ!? ボクは約束ヲ守るヨ?』
……なんか引っ掛かる物言いだな、こいつ。
こういう苛つく言い回しをする――ひとりの同期の顔が浮かび上がる。その名前を口走りそうになって、また小馬鹿にしたようなニヤけ顔まで頭に浮かんで舌打ちが出る。
『ほラホら、こんナ時はサ、お酒でモ飲メば? オ酒飲むノ好きでお店開ケルくらい詳シいンでしョ?』
「あぁ、んなこと言ってなくね?」
少なくとも、今の会社でそんな話題になってねぇし。
『そウダっけ?』
マぁ、いいカ――そう言ってパストは笑いかけてきた。こいつの言うことにいちいち取り合っても仕方ない。無視しておくに限るな。
終電までには帰すという言葉はさすがに嘘じゃないだろう――ていうか嘘だったら許さねぇ――と思ったので、ひとまず居酒屋に入ることにした。もちろん、飲んでいる間も電話は繋がっている。
『哲也クん、おいシソうに飲ンデるねェ!』
「いちいちコメントしなくていいっての……、っあぁ、うめぇ……」
『酔イ過ぎなイヨうにしテネ?』
「うっせぇなぁ、冷めること言うなよ、切るぞ」
『お話しテクれないノかぁ……』
「――っ、わかってるよ、通話は切らねぇから」
急に冷たさを帯びたパストの口調に、つい焦る。まさかこいつにそんな度胸があるとは思えないが、万が一ということもある。橘さんに何かあったら……そう思うと、こいつを無下にもできない。
だから、パストとの毒にも薬にもならないやり取りを続けながら、ちびちびと酒を飲むことにした。
「つーかお前はどこ住み? 俺に電話してるとお前も帰れねぇんじゃね?」
『安心しテよ、通勤すルノは電車だゲジゃなイデしょ?』
「…………へいへい」
近くにいそうだったら見つけ出してやろうかとも思ったが、いちいち癇に障るやつだな、酒が不味くなる。
適当に受け流しながら、飲み食いを続ける。おっ、なんか可愛い店員いるな、電話のせいだったとはいえ、わりといい発見したんじゃないか? ここ通おうかな……。
そしてしばらく経った頃、急に電話向こうから『アッ!』と声がした。どうしたのかと思ったら、『そロソろ帰ラナいとだネ!』とのこと。案外律儀なやつだな、終電までには帰すって約束なんて忘れてるもんだと思ってた。
あぁ、よく見ると店自体そろそろ閉まる時間らしい。さっき目をつけた店員の女の子も、仕事終わり近いからか、少し気を抜いた表情を浮かべているのが見えた。
『哲也くンガ楽しソうだッタから、忘れそウニなっちャッたよ! こコニ来てよカッた?』
「…………まぁな」
ちょっと気分がよかったのもあって、自分でも驚くくらい素直に言葉が出ていた。パストは電話向こうでそんな俺を嗤っているのだろうか――まぁ、俺から言わせればこういう場で楽しめないようなやつに嗤われても気にならないが。
『じゃア、お邪魔になリソうだかラ、ボクはこコデ失礼すルヨ。また明日ネ! ……ちャンと帰るんだヨ?』
そう言い残して、パストは通話を切った。
……ふぅ、疲れた。
こんなのがあとどれくらい続くんだろうな、そう思いながら、俺は店員を呼んだ。
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