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真夜中狂想曲
「橘さん、橘さん!? すいません、連れなんです、通してください、あの、すいません!」
くそっ、人混みが邪魔ですぐに行けない! どうにか人を掻き分けてトイレの前にいくと、そこには橘さんが蹲っていた。……、嘘だろ!?
「橘さん!」
「――――っ、」
「橘さん、どうしたんスか? いったい何が……!」
「さ、佐々木くん、なんか、急に人がぶつかってきて、そ、それで……」
俺の声に振り向いた橘さんは、いつもなら絶対に見かけることのないだろう、弱々しく怯えた顔をしていた。彼女が押さえている左腕を見ると、押さえた指の隙間から血が流れ出ているのが見えた。
誰が何をしたかなんて、もう、考えたくもないのにはっきりとわかった。
「くそ、あいつ……っ! 橘さん、それやったやつどこ行きました!?」
すぐ捕まえて、自分のしたことを後悔させてやる! 頭の中が真っ赤に染まって、喉や腹が熱くなって、胸の奥から何かが俺を食い破ろうとしているみたいに、衝動が芽生えた。
謝る時間なんてやらねぇし、二度と俺らに近付こうなんて思わないくらいにしてやらなきゃ気が済まない、あぁ、くそ、くそ、くそ……!
回りをキョロキョロと見回す、逃げようとしてるやつとか、それかじっとこっちを見てるうちの会社のやつとか、誰かがいたらそいつを捕まえるしかない。十中八九そいつがパストに違いない、あの野郎、橘さんに手ぇ出しやがって!!
ふと、冷たい感触が手に触れて見下ろすと、体を縮こまらせたままの橘さんが、すっかり冷たくなってしまった指先で俺の手を掴んでいた。
「……いいから、探したりしなくていいから」
「けど、橘さんにこんなことしたやつ許しちゃおけないっスよ! 自分が何したか、」
「いいから!」
震えた声で、橘さんが叫ぶ。
「そんなことしなくていいから、ちょっと傍にいてよ、怖いんだよ、ひとりになるの……」
「…………、」
そんなこと言われたら、追いかけるわけにはいかなかった。俺は橘さんに付き添って電車に乗り、彼女の最寄り駅までいくことにした。その間、電車のなかで橘さんはずっと俺の手を握って離そうとしなかった。
何度となく一緒に飲んで、愚痴とかも聞いたりして、仕事中には見ない一面をたくさん見たつもりでいたが、こんな風になっている姿を見ることになるなんて……。
駅に着くと、橘さんは「ありがと、もう大丈夫」と言って俺から離れた。
「あとは、彼に迎えに来てもらうから」
「大丈夫なんスか?」
「う、うん……。元々駅に着いたら迎えに来てもらう予定で連絡とかもしてあったから、たぶん、もういると思うし……」
なんだ、そうなのか。
「そ、そっすか、あの、ほんと気を付けてください。何かあったら、俺に言ってください。あ、てか何かなくてもいいんスけど、」
なんて伝えたらいいか、肝心なときにうまく言えない。どうにか言葉を紡ごうとしていると、クスッ、という静かな笑い声が聞こえた。
「ありがと、佐々木くん。ほんとに大丈夫だよ。いま彼の車泊まってるの見えたから」
少し明るくなった表情でそう言った橘さんを、俺は改札口から見送って(付いて行こうとしたら遠慮されてしまったのだ)、ホームに向かう。あんなに怯えきっていたから心配にはなったが、本人が大丈夫だと言っている以上、あまりしつこくもできない。
大人しくホームに行こうとしたときだった。
携帯が俺のポケットのなかで振動した。あぁ、そういや着信音切るときに設定してたっけな……そう思うと同時に、俺は電話に向かって怒鳴っていた。
「てめぇどういうつもりだよ! 俺が狙いなら俺にだけやりゃいいだろ、あ!? 今度同じことしたらわかってんだろうな! ふざけんな、この――」
『お、おいおいテツ? どうしたんだよ? 俺だよ、俺!』
「――、あ、悪い、どうした?」
電話をかけてきたのは、どうやらパストではなく田口だったらしい。すっかり焦った様子の田口になんて言い訳したらいいかわからなくて、しばらく言葉を探した。
すると、田口は『もしかして、昨日言ってたやつか?』と尋ねてきた。それから何かあったのか、とも。
……こいつは、信用しても大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はさっきあったことを洗いざらい話した。聞き終えた田口は、『それヤバくないか、ほんとに?』と言う。
『それさ、警察に相談した方がいいんじゃねぇの? たぶんそのうち、ほんとじけんになるって、それ』
「警察か……たぶん橘さんもそこまで大事にするつもりはないとは思うんだよな。だからこそ大丈夫、って言ったんだろうし」
『ふぅん……、まぁテツと橘さんがいいってんならいいんだけどさ? なんだろなぁ、よっぽどテツに依存してるやつなのかね、そいつ?』
「知らねぇ……、そんなやつに懐かれたってうぜぇだけだけどな」
『違いねぇな、まぁ、しばらくは様子見とけば? 橘さんがまた危なくなっても嫌だしさ』
「……あぁ…………」
まさかこんなことになるなんて、思わなかった。パストへの怒りもそうだが、自分への怒りも込み上げてくる。なんで近くにいたのに守れなかったんだよ、俺は……!
『つーか今気付いたけど、テツまだ外いんの!? 明日に響いても知らねぇぞ~』
たぶん俺を気遣ってなのか、妙に明るい口調でそう言い始めた田口とひと言ふた言話したあと、俺は通話を切ってホームに向かった。
ギリギリで終電に間に合って、何事もなく帰宅したが、その間どうしても背後が気になって仕方なかった。
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