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水曜日の憂鬱
そうやって迎えた翌朝。自己嫌悪が募りすぎて、いっそ会社を休もうとすら思ってしまったが、もちろんそういうわけにもいかない。布団から出たがらない心をなんとか身体ごと引き起こして、軽い朝食をとって家を出た。
電車に揺られている間、昨日のことがずっと頭を占めていた。
『怖いんだよ、ひとりになるの……』
いつも明るく笑って、普段ならそんなこと言いっこない橘さんにあんな顔をさせたパストを、到底許すわけにはいかない。絶対捕まえて、白状させたあとであれ以上の目に遭わせてやる。
少し目を離した隙のことだったから、どうしようもなかった――と言えばそうなのかもしれないが、油断はあった。ああいう人の多いところならパストだっておいそれと橘さんを傷つけるようなことはするまい、と思ってしまっていた。
あぁ、クソ!
思わず舌打ちしてから周りの視線に気付いて、とりあえずこの場では堪えたが、駄目だ、本当に気分が悪い。幸い今夜は特に予定もない、今日という今日は徹底的に追いかけて、目にものを言わせるしかない。
もう二度とあんな真似をしないって心の底から思うくらい、思い知らせるしかない……!
電車を降りた駅では、きっと誰かが駅員に言ったのだろう、昨日のことがとてもざっくりと掲示されており、目撃者を募る内容のことが書かれていた。確かに昨日は橘さんも気が動転していたこともあってすぐ電車に乗って帰ったから、詳しいことはまったくわからないのだろうが、周りにあれだけいて、誰も不審な人影を見てなかったのか?
見た目の特徴だとか、性別だとか、そういうことは何も書かれていない。本当に、何もわからない状態なのだろう。
胸の奥が掻き毟られたような不快感を胸に抱えたまま出社すると、たまたま席を立っていた橘さんとすれ違った。
「おはよう」
「あ、おはようございます。あ、その……」
昨日の傷は大丈夫なのか、と訊こうとした言葉は橘さんの「大丈夫」という言葉に遮られてしまった。
「あんまりみんなに心配かけても嫌だからさ、佐々木くんも普段通りにしててくれると嬉しいな。いいかな?」
そう言う間にも少し動いた左腕が痛んだのか、少し表情をピクッ、と引きつらせる橘さんに、少しだけ苛立った。
なんでそんなになってまで無理するんだよ、もっと周りによりかかれよ、普段あれだけ周りのこと助けてやってるんだから……!
「そんな心配なんてしなくていいじゃないですか、なんでそこまでして周りを気遣うんですか? 普段あんなに……、」
「いい、何考えてるか大体わかった」
俺の言葉を遮った2度目の声は、少しだけ強く、少しだけ冷たかった。
「わたしはね、あんまり言ってほしくないんだよ、そういう弱みになること。それに、そうやって面と向かって心配してるって素振りされると昨日のこと思い出しちゃうから辛いの。佐々木くんの手を煩わせちゃったことだって、気にしてない訳じゃないんだよ?」
声を荒らげるわけではない、金切り声で怒鳴り散らすわけではない、けど、明らかに、橘さんは怒っていた。
静かに、感情的に、橘さんは俺に反論の隙を与えないくらい言葉を続ける。
「思い出したくないの、昨日のこと。慰めるんならもう昨日帰ってからたっぷり彼に慰めてもらったから、もういいんだよ、そういうの」
「――――、」
「駅に送ってくれたことは感謝してるから。ありがとう。だから、ほんとに。会社では、もう、昨日の話は、しないでください、お願いします」
それだけ告げてデスクに戻っていく橘さんの背中を、俺はただ見つめることしかできなくて。そして周りの、何も知らないような連中と何事もなかったように和やかに話す姿に、そしてさりげなく左腕を庇っている姿に、怒りにも近い苛立ちを覚えてしまう。
……なんなんだよ、ほんとに。
こうなったのもパストのやつのせいだ。あいつがあんな真似しなければ、こんなことにはならなかったのに……!
そう思うと、腸が煮えくり返るような思いとともに、どうしようもない衝動が込み上げてくるのを抑えきれそうになかった。
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