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婚礼
それからもう少しの月日が流れた。
目が覚めると、老人の姿が見えなかった。いつもなら隣の布団で寝ているはずなのだが、布団を敷いた形跡も見当たらない。昨日はこの部屋に来なかったのかもしれない。
取りあえず、日課である挨拶をしに表座敷へと移動する。しかしそこにも嘉神老人の姿はなかった。不審に思いながらも、みちびき様の前に手をつく。
「お目覚めですか?」
「あぁ」
頭上から声が降ってくる。それはこの前のような親しげな雰囲気を全く感じさせない声色だった。それに敏司は少しがっかりする。
「敏司」
嘉神老人のことを聞こうとした矢先、みちびき様から声をかけられる。
「はい」
「今日は婚礼の儀を取り行う。食事を終えたらその紙に従え」
ついに、この日が来た。敏司は鼓動が早くなるのを感じていた。
一か月前の自分と比べて、みちびき様への不信感はかなり、いやほとんどなくなったと言っていいかもしれない。それどころか、みちびき様に何か特別な感情を抱いているような気すらしてくる。
精神医学にストックホルム症候群というものがある。犯人と長時間閉塞空間にいると、犯人に信頼や愛情を感じるようになるというものだ。敏司の今の精神状態はこれに近いものかもしれない。しかし結婚してもいいと、敏司は本気で考えてしまっていた。
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