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短大から新卒入社したのち、営業に配属されたのはいい。けれど、わたしには営業一課は無理だった。診断書を出して休職している一年の間に、今度は両親が病気で動けなくなった。
やがて、わたしは天涯孤独になった。皮肉なもので、その頃に復職願を会社に出せるようにもなった。
一年半経ってからの配置部署は、東堂が課長補佐を勤めている大阪店の人事情報部だった。東京在籍のままだった斎藤が長期休暇を取りはじめたのも、この辺りの出来事だ。
――「ようこそ、三歳違いの同期さん。気を遣わずに、なんでも言ってくれよな」
久しぶりに声を掛けてくれた東堂の顔色は、紙のように白かった。
ほどなくして会社の健康診断があり、課長補佐は即刻の入院を言い渡された。復職したばかりの頃に心細い思いをしたけれど、それはわたし自身の話。東堂は、もっと大変だったと思う。人事情報部に復帰して、すぐに係長に降格されたのだから。
同期の斎藤の話が出たせいだろうか、様々な記憶がよみがえってくる。ついつい、ぼんやりしてしまうと、東堂の笑う声がした。
「退勤打刻、忘れんなよ」
「あっ、ありがとう」
「遅くまで残業しているからだ」
「そうかもね」
二人揃って、ビルを出る。夜更けに向かうオフィス街は、湿った空気が漂っていた。
わたしたちは、並んで歩いた。横にいる東堂を見上げる。紺色のステンカラーのコートが、細身の体躯によく似合う。
「明日は雨になりそうね」
「そうだね、季節の変わり目だし……あっ」
東堂は言いながら、ポケットの中を探りだした。
何事かと思って見ていると、一枚の紙が胸元へと差し出される。
「なあに、これ」
東堂が眉を下げ、恥ずかしそうに片手で顔半分を隠した。
「ここ。行ってみない?」
A4サイズの紙だった。
わたしは街路灯の下で、しげしげとそれを眺めた。
――きつねうどんの店です。心も体も温かくして、お帰りください。毎週火曜と木曜の夜に、お待ちしています――
手書きだった。一行目は赤く書かれた謳い文句。二行目は、やや小さめの黒文字だ。その下方、大きく載せている画像がある。都市開発から漏れたような狭い路地の突き当たり。古ぼけた木造家屋がある。入口手前に灯る赤い提灯は、植え込みの樹木から吊り下げられているようだ。
提灯には「きつね」と、筆で書かれている。よく言えば素朴、悪く言えばヘタウマ。
わたしは東堂に、その紙を突き返した。
「なにこれ。怪しさ満載なんだけど。食中毒にでもなったら、どうするの」
「そう言うなよ、あのな」
上司は、にんまりとして頬をさすった。
「このチラシの通りなのさ」
「どういうこと」
「ええとな、たしか。あっちの方……あ、灯りが見えないか? あれ」
東堂が指を差す方向を見る。道路を渡って、横に伸びる道の二つ目。ぽうっ……と橙色の淡い光がまたたいていた。
「火曜と木曜の夜しか、あの灯りは見えないんだ。そう言えば三日前に斎藤と飲む場所を探しているときも、候補に上がったんだけど。斎藤が『怪しいから、止めとこう』なんて言い出したものだから、立ち寄れなかったんだよね」
「あ、なんとなく。ぽわーん、って、」
目を細めると、そこだけ浮いているようにも見えてくる。すると東堂が、小躍りしはじめた。
「えっ、見えるの? 本当に?」
「ま、まあね」
返事をするのと同時、東堂はわたしの腕を取った。そのまま、いそいそと道路を渡ろうとする。
「ちょ、ちょっと待って」
「いいから、いいから。いやー、さすが俺の同期だ」
「わ、わたし目が悪いから! 勘違いかもしれないじゃない!」
しかし。
浮かれ顔の上司は、女性部下の必死な踏ん張りをものともしない。
「た、助けて」
唇から声が漏れる。
「いいじゃん。同期入社の仲なんだぜ。付き合ってよ」
「今は上下関係あるじゃない」
「固いこと言うなよ。腹、減っているだろう?」
「んもうー」
わたしは体を引っ張られながら、抵抗することをあきらめる。その代わり、思いっきり東堂を睨んだ。
「こういう時ばっかり、都合よく言わないでよ。同期、って」
「いつ俺が、茉莉ちゃんを私利私欲のために騙したんだよ」
「毎日」
「嘘つけ」
「わかったから、手を離して」
「はいはい、ごめんね」
にこにこ笑顔の男と向き合って、わたしは顎を上げた。
「斎藤くんじゃないけど、わたしも怪しいと思うわ。こういうの」
「そうかな」
「まっすぐ駅に行こうよ。東堂くん、残業続きで疲れてるんだよ。頭のネジが緩くなってるから、こんなチラシに心が惹かれるのよ」
「行ってみるだけだよ」
やれやれ、とわたしは肩をすくめた。これじゃ、さっきと立場が入れ替わっただけだ。職場ではわたしが駄々っ子になり、路上では東堂が甘えん坊みたいになっている。
「しょうがないなあ」
気がつけば、横断歩道を渡りきっていた。にやけた笑顔の東堂に、すっかりやられっぱなしのような気がする。
彼の目線の先に、わたしは指を向けた。
「あれが見えない人がいるの」
「そうなんだよ。誰でも誘えるわけじゃないんだ」
「ひとりで行けばいいじゃない」
「それなんだけど」
東堂は声をひそめた。
「ひとりで行くのは、怖い」
「変なの」
わたしは笑いながら東堂を見つめた。
「仕方がないわね。付き合うよ」
「さんきゅ」
歩きながら、東堂に尋ねる。
「どうして灯りが見える人と、見えない人がいるのかな」
「それは俺にも、わからない。なにか意味があるのかもしれない、ないのかもしれない。でも俺には見える。だけど同僚には見えない」
「東堂くんの同僚って」
彼の口から、何人かの役職者の名前が挙がった。わたしたちとは違う部署の、中間管理職の面々だ。
「それで? わたしを誘ってみたの?」
「そう」
東堂は照れくさそうに「んっふ」と、片手で顔半分を隠す。
「茉莉ちゃんだったら、きっと見えると思ったんだよ。同期だし、俺と同じようにアウトロー社員だし」
「変な理屈ね」
アウトロー社員、か。たしかに言われたら、その通りかもしれない。
それに東堂が挙げた名前は全員、彼よりも年上ばかりだ。こんなチラシを出して誘ってみるなら、彼らよりもわたしの方がいいに決まっている。
東堂が言う。
「些細なことでも共感できる人に会うことは、むずかしい」
その言葉は、ちょっぴり感傷的に聴こえた。
「そうね」
わたしは相槌を打って、灯りへと顔を向けた。
「あれ、よね?」
「ああ、そうだ」
東堂が手元のチラシと、二十歩ほど先にある木造家屋を見比べた。バスケットボールほどの大きさの提灯が、ふわふわと風に揺れている。
大通りにまで漏れていた光の元は、あの提灯だろうと容易に想像がつく。
その少し奥まったところ。擦りガラスが、はめ込まれている両開きの引き戸があった。細かく長方形に形作られた木枠と擦りガラスから漏れてくる灯りが、路面をほのかに照らしている。
「きれいね」
「うん」
わたしたちは黙ったままで、歩みを進めた。引き戸を開けたのは、東堂だった。
なめらかに、視界が拓ける。
天井には和紙が貼られた照明があった。店内は狭く、ほの暗い。分厚い一枚板で作られた飴色のカウンター。四人が座れるのが、せいぜいに見える。引き戸のそばには同じ素材で作られた、小さなテーブルが二つ並んでいる。壁も柱も古ぼけていて、ところどころシミがある。それらは妙な温もりを醸し出していた。
懐かしい記憶を掘り起こされる直前。
カウンターの奥から、大人になりきれていない男の声がした。
「いらっしゃいませ」
黒髪を短めに刈った頭に、白いきつねのお面を乗せた男の子がいた。年のころでいうと、十代後半あたりに見える。
切れ上がった二重の目と、すっと通った鼻筋。色白の肌と、尖った顎。ほっそりした首筋が、天井からの橙色の光を受けて品よく白いTシャツに収まっている。
「お好きなところに、お座りください」
男の子はうれしそうに、頬をちょっぴり赤く染めた。
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