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「そういえば」
わたしはケンちゃんに言った。
「どうして、うどん屋を開こうと思ったの?」
「ああー」
彼はこちらに、真っ直ぐに向き直った。そして、口元をゆるませる。
「ちいさい頃にね。特に、とても寒い夜だったと記憶しているんですけれども」
「ん」
「両親が仕事の合間に、連れて行ってくれたんですよ」
「うどん屋に?」
「そう」
ケンちゃんの瞳に、懐かしそうな光が浮かぶ。
「お初天神の近くとかね。冬になると屋台のうどん屋さんが、あちこちの路地裏に現れる。昔、よくあったでしょ。車輪がついた移動式の屋台。そこに、ぼくたち親子はヒトに姿を変えて」
「へえ」
「大概は、母が連れて行ってくれたかな。父は留守番役でして」
「いいわね、それ」
ぽうっと灯りがともるように、状景が浮かんでくる。
木枯らしがきつい冬の夜。人気の少ない、狭い路地裏に停まっている屋台。古ぼけた丸椅子に座っている親子連れの客。寒さでかじかんだ手をさすりながら、ささやかな暖を取っている……。
屋台の上から揺れる電球は、たぶん淡い橙色だ。ちいさな男の子の丸い頬が笑うたびに、ほのかな光が風に揺れる。それを目を細めて見ている、“親きつね”。
わたしも自分の頬が、ほころぶことを感じた。ケンちゃんは言葉を噛みしめるように、訥々と話す。
「母が編んでくれた、赤いマフラー。うどんを食べ終わったあと、屋台に忘れてしまったことがあります」
思わず、身を乗り出していた。
「それで?」
「次の日に、取りに行きました」
ケンちゃんが照れくさそうに、こめかみをさすった。
「うどん屋の大将がマフラーを丁寧に畳んで、ぼくを待っていてくれた。ありがたかったなー」
「よかったね、ちゃんと手元に戻って」
「はい」
それからケンちゃんはうつむいて、ぽつんと言った。
「冬の夜とか、さみしくなった夜とか……誰かをあたためてあげられるような、そんな仕事がしたいなと思ったのは、それから。物事に困っていたり迷っていたりするヒトからお金を巻き上げるような存在になるための学校なんて、ぼくには向いてない」
「そんなこと」
わたしは言いながら、かぶりを振った。
「そういう、あったかい思い出があるケンちゃんなんだもの。“巻き上げる”神さまの御使いになんか、なるわけないじゃない」
「そうかなあ」
ケンちゃんの双眸が、こちらを見返してくる。その瞳が、ほんのちょっと赤く滲んでいるような気がした。
「わたしが生まれ育った家庭って、そんな温もりなんてなかったよ。仕事の合間に時間をこじあけて、子供と一緒に屋台のうどんを食べに行くケンちゃんのご両親は、とてもやさしい心の持ち主だと思うよ? そんなご両親から育てられたあなたが、お金儲けだけ考える神さまのお使いなわけないじゃん」
知らず知らずのうちに、わたしの口調は強いものになっている。
「あなたは正しいと思うよ。でも、できるだけ学校は行ったほうがいいよ。これから先、ちょっとでも自分に足りないところを知るために」
ケンちゃんは少しびっくりしたような目で、わたしをふたたび見つめた。
「茉莉さんも、思い出に出来ないことがたくさんあるんですよね」
「まあね」
ほんの少しでも感情を剥き出しにしてしまった自分が、恥ずかしい。今度は、わたしが下を向く番だった。
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