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ケンちゃんが、こちらの心を察したのか。そうっと話しかけてくる。
「場所を変えます?」
「いいよ、別に」
どういう意味に取ったのかは知らない。けれども相手は「ふうー」とため息をついて、わたしの手に自分の手を重ねてきた。
「明日は、ちゃんと学校に行きますから。安心して」
「わかった」
わたしはゆっくりと顔を上げて、ケンちゃんの頭に乗っているきつねのお面をコツンと叩いた。
「お客さんを心配させたら、だめだからね?」
「うん」
きつね男子は、目線だけを伏せた。その眉毛が、八時二十分のかたちになる。本当に素直な子なんだなあ……しみじみと感じると同時、知らないうちに吹き出してしまった。
「なにかおかしいこと、しました?」
きょとんとしたケンちゃんを置いたまま、ベンチから立ち上がる。
「おかしくないよ」
わたしは、ひらひらと手を横に振って見せた。ケンちゃんも満足そうな表情で立ち上がり、お尻の辺りをぱんぱんとはたく。
「陽が翳ってきましたね」
「あら、ほんと」
朝から青空が広がっていたけれど、ちょっとお日様が隠れている時間が長くなっているみたい。
わたしたち二人は言い合わせたわけでもないのに、駅の方向へと歩いている。
ランチ前に東堂係長と待ち合わせた喫茶店まで歩く。ここを曲がって歩いて行くとケンちゃんの仕事場、露天神社だ。
商店街の入り口で、ケンちゃんが笑顔で手を振ってくれる。
「茉莉さん、今度の火曜日の夜は絶対に来てね」
「もちろん」
すーっと振り向いた彼が、人の波にまぎれていくところをずっと見ていた。
なぜか知らないうちに、わたしの鼻の頭がツンと熱くなる。なんでだろう、と思うよりも先に、ぽろっと涙が出てきている。
「ああー」
思わず声を上げて、目尻を拭う。
あんなこと、言わなければよかった。
わたしが持っている子供時代の記憶なんて、他の人と比べると圧倒的に温もりに貧しくて惨めなものだ。それを、うっかり……。
いや、たぶん、そうじゃなくて。
ケンちゃんの前だったから、ずっと閉じ込めていたものがぽろぽろと出てきてしまったのだ。
閉じ込めたままで“オトナ”と呼ばれる年齢まで来てしまったのだ。
だから、さみしいな、と思うときがたくさんある。
でも、なんとなくだけど。
これから少しだけ、さみしくなくなりそうな気がする。何の根拠もない、あやふやな予感だけど。
「さて、帰ろっかー」
あしたから、仕事だもの。
がんばらばくっちゃね。
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