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座り直して、息をついた。
蕾ちゃんが持ってきてくれた書類の束を見る。この分量なら……六時までには終わるかなあ。終わったら、まっすぐにケンちゃんの顔を見に行きたいな。
入力したものを最終的にチェックして上書きするのは、東堂係長の仕事になる。六時よりも前に係長から呼び出しを受けない限りは、サクッと退社できるだろう。
わたしは自分の業務を、慎重に再開する。何枚かの履歴書を入力し終わり、まとめて誤字脱字などがないか確認をする。上手な字ではなくても、丁寧に綴られている書類が多いときは楽だ。
人差し指を書類に充てて、モニタに映るそれらと相違がないかたしかめていたとき。
斜め前から、誰かの気配を感じた。
顔を向けると、東堂がなにか言いたそうな表情で立っていた。手には缶コーヒーを一本、持っている。
「なにか入力ミスでもありましたか。それか急ぎで入力する書類とか」
こちらの言葉に、上司は「いや」と唇を動かした。
「野々村さん? 十分間の休憩を取ってくれない?」
「もう、そんな時間?」
法的に定められているわけではないけれど、ヒトミ食品は入力作業などに携わる職場には一時間ごとに十分の休憩を取るように総務部から指導されている。その休憩を取れ、と東堂は言いにきたのだ。
「没頭してくれるのは、ありがたいんだけどね」
東堂は口元をゆるめて、パソコンの脇に缶コーヒーを置いた。
「んー、でも」
「そう仰らずに」
彼がきりりとした眉を下げて「ぴっ」とコーヒーを指さした。
「天井にあるカメラ、総務部長が逐一チェックしてる。ひとりでもガイドラインから外れていると、俺が呼び出されちゃうんだよ」
これを飲め、ということですか。
わたしは黙ってうなずいて、缶コーヒーのプルタブを開けた。東堂は自分の言いたいことだけを言って、自席へと戻ってしまう。
熱めのブラックコーヒーを、ゆっくりと口に含む。スチール素材ではない、なにかが手に触れる。
首を傾げて、缶をくるりと回してみる。ちいさな付箋が貼られてあった。
東堂の走り書きだ。
「うどん、食べよう」
なんじゃこりゃ。
思わず苦笑しそうになったのと、こころもち顎を上げている蕾ちゃんの視線に気がついたのは、ほぼ同時だった。
わたしは知らんふりをして付箋を手で隠す。
わざとらしく首を左右に曲げたりして、くつろぐ素振りをしている自分。なんだか悪いことをしているみたいだ。
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