05 涙のカレーうどん

4/14
311人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ
 ゆるゆるとコーヒーを口に含みながら、パーテンションに貼られているカレンダーを見る。  東堂に誘われてケンちゃんのうどん屋に行ったのが、先週の木曜。その夜の東堂は一晩中、うどん屋で過ごしている。  翌日の金曜はわたしが欠勤した日だ。欠勤連絡を入れた直後に、会社のネット環境が一気に落ちた。いまだに、どうしてサーバー元から使えなくなったのかは原因不明らしい。  そして、その日の昼前に偶然わたしは東堂と会った。その流れで、ケンちゃんと東梅田の太融寺(たいゆうじ)でデート。  ケンちゃんが作ってくれるうどんを食べたい。  澄んだ出汁(だし)、ふっくらした油揚げ、みずみずしい青さが香る九条(くじょう)ねぎ。つるんとしたコシのある麺の、なめらかな舌触り。  なんといっても店主がこちらに差し出してくれる「さりげないやさしさ」を、何度でも味わいたくなる。普段なにげなく食べつけている料理にも、それぞれに籠められた思いがある。  ごく当たり前のことを、あらためて気づかせてくれたのは他ならぬ「神社のきつね」だ。  差し入れの名目で缶コーヒーを持ってきた東堂も、きっとわたしと同じ気持ちのはずだ。でなければ、わざわざ付箋に走り書きメモなんて付けてこないよね。  ケンちゃんは言った。うどん屋は火曜と木曜の夜に営業しますよ、と。つまり火曜と木曜の夜だけは、現実社会の夜とあやかし世界の「隙間が空く」ということだ。  路地裏の突き当り、ふんわりと風のように現れるうどん屋。その引き戸の前に掲げられている提灯のともしびは、見える人と見えない人に分かれる。東堂とわたしには見える灯りだ。でも、東堂と近しい人たちの多くは見えてない。  「見える」「見えない」人の違いって、一体なにがあるんだろう?   考え込んでいくと、知らず知らずのうちに唇が尖っている。  ――別に「見える」からといって、わたしや東堂が人間的に優れているとか、そんなことは有り得ないはず。たぶん、だけど。  もしかしたら難しく考える必要が、ないことなのかもしれないなあ。  ただ、ちょっと心に引っ掛かっていることがある。  ケンちゃんは、東堂やわたしのことを「待っていた」と言ったんだよね。  でも、それ。馴染み客を作るためのサービストークかもしれない。  なによりも、うどん屋の店主ケンちゃん。そんなことで現世の人間に優劣をつけるような性分ではないだろうし。  やさしさいっぱいの彼が、他者をなにか無闇に選別したり(ふるい)にかけるはずがない。交わした言葉のひとつひとつが、よみがえってくる。  今よりずっとちいさかった頃の、ケンちゃんの記憶。空の星たちが、凍えてみえるような冬の夜。  きつね親子がヒトの大人と子供に姿を変えて、かじかんだ手をあたためあいながら屋台のうどんを食べている。とても素朴だけれども、こちらの胸の奥底まであたたかくなるような光景だ。  ちょっぴり、わたしのこころが切りつけられるような痛みもあるけど。ケンちゃんを支える、ひとかけらの宝石のような思い出話は決して不愉快なものではなかった。  あのときの彼の声が、ふっと耳元に響いたような気がした。 「……誰かをあたためてあげられるような、そんな仕事がしたいなと思ったのは、それから」  現実に経験したことなのに、あの温もりに満ちた響きが夢のように思えてくる。  急に、せつなくなってしまった。  パソコンのモニタ右隅を見ると、休憩時間が終わりに近かった。  最後のひとくちになったブラックコーヒーを、噛みしめるように飲み干す。定時の午後六時まで、あと四時間……長いような、短いような。でも、まあ……毎日まいにち決まりきった業務をこなしていくことって、こんなものかもしれない。なるべく波風を立てないように、自分や職場全体に築いてきたリズムを崩さないように。  椅子に座り直すと、なぜか東堂がまたしても斜め前にいた。ぺちぺちと両手で頬を挟みながら、上目遣いで上司を見つめた。 「あたしブラックコーヒーじゃなくってミルクティーが飲みたいです、係長」 「催促か」  東堂が整った口元を崩し、ふふんと鼻で笑う。 「野々村さんの御用聞きに来たんじゃないぞ」 「では、なぜ」 「仕事の依頼」 「えー、残業ですかー。やだー」  東堂が「うるせえなー」と苦笑しながら、一枚の紙と一人分の履歴書をひらひらさせる。 「急で申し訳ないんだけど、これ。すぐに入力して。十分あれば終わるでしょ、頼むわ」 「履歴書は? 高梨さんにチェックしてもらったものでなければ、わたしは入力できない決まりなんですけど」 「人事部長がチェックしたものだから高梨くんチェックは要らない」  え、部長が直々にチェックって。どういうこと。  ぽかんと浮かんだ疑問に応えるように、東堂は顎をさすりながら言う。 「ちょっと、訳あり。俺からみたら、たいしたことないんだけど。履歴書は、あまり多くの人の目に触れさせたくないみたい。対外的にも、社内的にも」  どこかの王族皇族が、お忍びでバイト応募してきたのか。社員採用にでもなったのか。いやまさか、そんなことがヒトミグループにあるわけない。 「了解しましたー。じゃあ、この書類から仕事を再開します。入力し終わったら、係長に手渡ししたらいいですか」 「そうして。頼むね」  渡された履歴書を見て、わたしは「ああ、そっかー」とつぶやいていた。たしかに、これは外部に漏らしたくない情報だとは思う。  だって、ヒトミ現会長の曾孫(ひまご)なんだもの。  それだけだったら、たいしたことないと思うけど。ちょっと前にテレビメディアがハイエナのように社屋のあちこちに張り付いていたネタだったから、こんなわたしでも記憶している。  スキャンダラスな生い立ちもさることながら、裁判沙汰にもなっているキラキラネームの持ち主。そんな背景がある男の子が、履歴書の片隅で唇を歪めて激しく自己主張をしているように見えてならない。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!