05 涙のカレーうどん

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 同僚男性は「それなら、よかった」と、顔をほころばせた。 「この前も野々村さんは、体調不良で休んでいたでしょ。季節の変わり目だし、そろそろインフルエンザも流行るころだから」  心底から気遣ってくれている彼に、わたしは軽く頭を下げる。 「ありがとうございます、大丈夫です」  言ったからには、大丈夫な姿勢を見せなければだよ。  はた、と思いあたる。  もしかしたら、この仕事を振ってきた東堂も「遅い」と感じはじめているかもしれないではないか。それは部下として、ちょっと困ります。  準備運動よろしく首を振って、背筋を伸ばして。気持ちをあらためて入力をはじめる。  履歴書の本人希望欄の片隅に、東堂のものではない字で走り書きがしてあった。  ――来週月曜、関東第一工場で雇用開始。今週金曜〇〇日と土曜〇〇日、研修。  人事部長の字かな、と思った。  それをモニタの中、エクセル表の備考欄に入力し終える。もう一枚、東堂から渡されたA4用紙がある。  山下さんの研修日程が記されていた。  あしたとあさってが研修なんだね。雇用の形態を問わず、中途入社する人たちが受ける全体研修のようだ。  おそらく彼らが最初に学ぶことは、ヒトミ食品グループの歴史と職制だろう。わたしが初代社長の趣味で集めた骨董物や、歴代の偉いさんたちが出場した剣道の試合のフィルムなど見せてもらったときは退屈だった記憶があるけれど。今はそういうことまで見せるのかなあ。  あ、でも。確実に彼らは、現会長のフルネームや業績も教わるだろう。昔の武将みたいな、やたらと画数が多い名前だ。きっと誰も、山下さんが現会長の曾孫だとは思わないだろう。  ……そういえば、あの退屈な研修のとき。  ついつい目を閉じて、うたた寝しそうになった。それを後ろから「教育担当が見てるよ」と、つついてくれたのが東堂だった。彼の横にいた斎藤くんが、くすくす笑っていたことを昨日のことのように思い出す。  あれがきっかけで東京採用の三人は、仲良くなったんだよね。  全体研修を受ける新人たちが、この会社を好きになってくれたらいいな。  なによりも山下さんが「同期」たちと、ひとりでも仲良くなれたらいいなあ。  すべて入力が終わった書類を取り、立ち上がる。用事を言いつかった上司へと、履歴書と研修明細が書かれた用紙を手渡しをするためだ。 「入力しました、確認をお願いします」 「はい、ありがとう」  東堂係長は二組の紙を受け取り、わたしを探るような目で見つめた。 「この新人の履歴書、他の人には見せてないよね?」  わたしは目を丸くして、言っていた。 「当然じゃないですか。この人だけじゃありません、入力させてもらった人のことは全部、守秘義務があるんだから」 「そ、そうなんだけど」  思いがけず強くなっていた口調に、東堂は驚いたようだった。きれいなかたちの眉が、こころもち上がっている。 「心外です、わたし」 「悪かった、一応な。形式的にでもたしかめておかないと、どこで誰が耳をそばだてているかわからんから」 「それにしても過敏すぎませんか」 「そうだよな」  直属の上司が困惑した様子で、天井のカメラを見上げる。総務部長がご丁寧にも、全国各部署をモニタで監視しているというカメラだ。 「野々村さんに上司がいるように、俺にも上司がいるんだよ」  東堂はこめかみを、ぽりぽりと人差し指で掻く。彼が困ったときの癖だと思い、わたしはカックリと肩を落とす。 「自分にだって、わかりますよ。この新人さんの情報を、社内でも必要最小限の露出に留めておきたい、そういうことでしょう」 「ああ」  わたしは声をひそめて、言った。 「同族経営の会社は、こういうときに弱いのかもしれませんねえ」 「まったくだ」  東堂が応え、なにげなく腕時計に視線を投げた。それから頬をさすりつつ、わたしの顔をじっと見つめた。 「俺が許可するから、今から十分間の休憩を取っていいよ。休憩明けに片付けしていたら、ちょうど定時だろ」 「は? ……あのう、仕事は」 「せんでええわー」  なりきれていない関西弁のイントネーションで言った上司が、からからと笑い声を上げた。
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