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無事に退社をしてきました。うどん屋を目指し、いそいそと足を速める。
陽が落ちるのが一段と早くなった。そろそろ厚手のコートを出すべきかもしれない。ぽうっとまたたく橙色の灯りの元へ行き、引き戸を開ける。
「いらっしゃいませ」
ちょっとかしこまった声が、すぐに砕けた雰囲気に変わった。
「こんばんは、茉莉さん」
「こんばんは」
言葉を返しながら、カウンターの一番奥に座った。目の前に、すっと湯呑み茶碗が置かれる。ちょうどいい熱さのほうじ茶だった。こまやかな心遣いが、とてもうれしい。
「おいしいね、このお茶。とっても香ばしくて、やさしい甘味もあって」
「そりゃあ、そうでしょう。ぼくが淹れたお茶だもの」
ケンちゃんが、いたずらっ子のように目尻を下げる。
「待っていてくださいね、研究したんですよ。新作を」
「新作?」
「カレーうどんです」
わあ、と歓声を上げたわたしを見て、ケンちゃんの顔がますますほころぶ。
「今夜のお客さん、みんなに食べてもらいたくて。がんばりました」
そう言って、きつね店主が背を向けた。手際よく動く後ろ姿を見ているだけでも、幸せな気分になってくる。
すぐに鼻先を、鰹出汁の匂いがくすぐってきた。奥の方からは、様々なスパイスの香りも漂ってきている。
ほどなくして、ケンちゃんが振り向く。
「お待たせしました」
わたしは置かれたお盆の上を見て、子供のように両手を胸の前で合わせている。
「いただきます」
みるからにたっぷりと、とろみのあるカレーうどん。丼いっぱいに広がったルゥからは、斜め切りされた白ネギと細く刻まれた油揚げが見える。お盆には他にも、温泉玉子が入っている小鉢とかやくごはんの茶碗があった。
「わあ……」
カレーうどんに箸を入れると、つうんと濃いめの鰹出汁の香りがした。くったりとルゥの色に染まった薄切りのかまぼこと、とろけかけた小指の爪くらいの大きさに刻まれた豚バラ肉。
唇の中に、うどんの麺が鰹出汁とカレーを絡めて入っていく。ひとくちひとくち、大事に啜っていたいのだけれども。ついつい、はしたなくなってしまう。食べるスピードが速くなるのだ。
温泉玉子を丼の中に入れると、とろりとした黄味がカレールゥの風味を変えていく。つるつるしたうどんの麺と絡まる風味が微妙に変わって、これもまた捨てがたい。これから先の一生涯、一日三食、このカレーうどんを食べることができたなら、どんなに幸せになるだろう。
至福の時間を、ゆっくりと味わっているのみの自分。
「ふう」
なるべく綺麗に食べているつもりなんだけど……正気に返ったわたしは、ケンちゃんを上目遣いで見つめた。
「お代わりしません?」
ケンちゃんのやさしい声に、無防備に甘えたくなった。
「うん」
うなずいたとき、引き戸を開く音が聴こえた。
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