05 涙のカレーうどん

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 引き戸を開く音がして、そちらに顔を向けている。  東堂くんかな……と思ったら、違う人だった。もっと若い風貌の男が、ひょっこりと身を入れてくる。  あっ、と声を上げそうになった。  いろいろ感じ入ってしまって、つい業務を躊躇していた履歴書の「山下さん」そっくりだったから。  若い男はカウンターにいる先客のわたしを見て一瞬、全身を固めた。  屈託のないケンちゃんの声が、彼に向かってかけられる。 「いらっしゃいませ」  若い男の表情が、どんどんこわばっていく。やがて彼は、おそるおそる唇を動かす。 「ひとりなんだけど、いい?」 「どうぞどうぞ。お好きなところに、お座りください」  きつね店主が、やわらかく応える。そっくりさんは、目線をキョロキョロさせて店内を見渡している。  新客がテーブルに着いたことを視界の隅に入れたあと、わたしはパッと視線を外した。  間違いない。  「山下さん」の履歴書写真、そっくりだ。  アングラ芸術家っぽく染めていた髪の色が、黒く戻してあるだけ。グリースをぶちまけて、つんつんに毛先を立たせているのは写真とは違うけど。  ちら、と盗み見した右耳にはピアス穴が二つ。少し腫れぼったい両目は二重まぶた。唇の左端っこにもピアスが入れているのは、あの写真と同じ。  見た感じからいうと、ケンちゃんと同じくらいの年頃なのかもしれない。  ちいさな子供が梅田で迷子になって、たまたま迷い込んできた……そんな感じ。  写真から受けた印象と、まったく変わらない「生身の人」が、そこにいた。  新客が戸惑い立ちすくむ感じから、少し離れたわたしのところまで。ぷんぷん匂ってくる空気があった。  一所懸命に生きたいのに。  誰も自分を受け入れてくれない。  自分の居場所は、どこにもない。自分の居場所を作ろうとしても、がんばってもがんばっても、誰ひとりとして許してくれない。  さみしくて悲しくて、でも一歩だけでも踏み出したくて。  深い絶望と、ささやかな決意が入り混じる怯えきった空気が、痛いほど伝わってくる。  知らず知らずのうちに、わたしも彼と同様に緊張していた。  感じとる空気は、こちらの勝手な想像なのかもしれない。けれども万が一にでも、わたしが直観したすべてが本当のことだとしたら。新客から伝わる、ささやかな決意のすべてを。わたしが今ここにいることで、踏みにじっているのかもしれない。  様々な想像が心の中を、駆けめぐる。 「山下さん」とは、別人かもしれないのに。  それはそれで、自分的には非常に気まずい。  だけど、店主のケンちゃんだけは。のんびりと新客に呼びかけていた。 「すみません。ここ、ぼくひとりしかいなくて。カレーうどんで、いいですか?」  わたしは息をひそめて、背後の男を窺った。一見客に、そんな物言いをする食べ物屋の店主なんて、なかなかいないものね。  しかもカウンターの中にいる男は、お祭りの日でもないのにきつねのお面を頭に乗せている。  普通に考えたら、注文をしないで立ち去っても構わないのだ。  だけど。  うどん屋の狭い空間の中。  少しの沈黙のあと「はい」と応える声が聴こえた。
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